ナイススの戦い
概要
ゴート族とヘルール族が数万で船で黒海からバルカンへ。クラウディウス2世が近衛と騎兵でナイススで潰した。「ゴティクス」。翌年、疫病で死んだ。次のアウレリアヌスがゴートをドナウの北へ追い、ダキアを捨てた。ゴートは100年、来なかった。
場所
43.32°N 21.90°E · セルビア
本文
3世紀の半ば、ローマ帝国は内と外から揺さぶられていた(三世紀の危機)。皇帝は軍に担がれては殺され、西ではガリアが独自の皇帝を立てて離れ(ガリア帝国)、東ではパルミラのゼノビアが勢力を広げていた(ゼノビアのパルミラ)。ドナウ川の下流と黒海の北には、ゴート族をはじめとするゲルマン系の諸部族が住みつき、250年代から、川を越え、海を渡って帝国に侵入するようになった。251年には、皇帝デキウスがゴートとの戦いで戦死している。
260年代、侵入は海から来るようになる。黒海北岸の港の船を手に入れた諸部族は、ボスポラス海峡を抜けてエーゲ海に出た。267年にはヘルール族がアテネを襲い、歴史家デクシッポスが市民を率いて抵抗したことが知られている。268年ごろ、ゴート族、ヘルール族、ペウキニ族などが、さらに大きな船団で南下した。後の史料は32万人と2000隻(あるいは6000隻)と伝えるが、これは明らかな誇張である。それでも、マケドニアのテッサロニキを囲み、ギリシアとバルカンの内陸を荒らすだけの規模はあった。

このとき皇帝ガリエヌスは、反乱を起こした将軍アウレオルスをミラノで包囲していた。268年、ガリエヌスはその陣中で自分の幕僚たちに殺される。後を継いだのが、ドナウ地方出身の軍人クラウディウス(クラウディウス2世)である。クラウディウスはまず北イタリアに入ったアラマンニ族を破り、それからバルカンへ向かった。
決戦の場は、ナイスス(いまのセルビアのニシュ)の近くだった。伝えによれば、ローマ軍は初め押されたが、迂回した部隊が敵の背後を突き、ゴート側は大敗した。死者は5万人と伝えられる。逃れた者たちはハエムス山脈(いまのバルカン山脈)に追い込まれ、冬の飢えと疫病で数を減らした。騎兵を率いて追撃したのは、のちの皇帝アウレリアヌスだったとされる。海へ戻ろうとした者たちは、ローマの艦隊に追われた。多くの捕虜が兵士として軍に組み込まれ、あるいは農地を与えられて帝国の中に住まわされた。

この戦いには分からない点が多い。年は268年とも269年とも言われ、ガリエヌスが殺される直前に挙げたネストス川での勝利と混同されている可能性も指摘されている。勝利をクラウディウスの功に集めたのは、後の時代の史料の脚色だと見る研究者もいる。確かなのは、この数年でバルカンの大侵入が押し戻されたことである。
クラウディウスは「ゴティクス(ゴート族の征服者)」の称号を得た。しかし270年、シルミウムで疫病にかかって死んだ。軍人皇帝の時代に、殺されずに死んだ数少ない皇帝の一人である。後にコンスタンティヌス1世は、自分の父がクラウディウスの血を引くと唱えた。310年ごろの頌詞に初めて現れる主張で、権威づけのための作り話と考えられている。ナイススは、そのコンスタンティヌスが生まれた町でもあった。
クラウディウスの死後、弟のクインティルスが短いあいだ帝位を名乗ったが、まもなく死に、アウレリアヌスが皇帝になった。アウレリアヌスはドナウの北でゴートを再び叩いたうえで、ダキア戦争でトラヤヌスが106年に属州にしたダキアを放棄し、住民をドナウの南に移した。守りきれない川向こうの土地を捨て、川を防衛線に戻したのである。アウレリアヌスはその後、パルミラとガリアを取り戻して帝国を一つに戻す(アウレリアヌスの帝国再統一)。
ナイススの戦いの後、ゴート族が大軍でドナウを越えてくることは、およそ100年なかった。その間にゴート族はドナウの北で定住し、一部はキリスト教を受け入れた(ウルフィラのゴート語聖書)。376年に彼らが再び来たときには、東から来たフン族に追われ、帝国の中に住まわせてほしいと願い出る難民の群れになっていた。その2年後、ローマ軍はハドリアノポリスの戦いで彼らに大敗する。