トラヤヌス
概要
ダキアとメソポタミアを加え、帝国の版図を最大にした。属州出身の最初の皇帝。
所属
ローマ帝国関わったできごと(2)
ダキア戦争AD106年 · 皇帝ローマ帝国の最大版図AD117年 · 当人本文
53年9月18日、ヒスパニアの南部、バエティカ属州のイタリカに生まれた。いまのスペインのセビーリャの近くになる。家はイタリアから移住したローマ人の家系で、父は元老院議員にまで上り、シリア総督も務めている。属州生まれの最初の皇帝になる人で、帝国の支配層がイタリア以外へ開いたことの印になる。

若い頃から軍に長くいた。父の下でシリアで軍団の将校を務め、のちにゲルマニアの軍団を指揮する。97年、老いた皇帝ネルウァは、近衛隊の反乱で威信を失っていた。そこで、前線の軍に人望のあったトラヤヌスを養子に迎え、後継に定める。血のつながりの無い有能な者を養子として継がせるやり方は、ここから五賢帝の時代の型になった。翌98年、ネルウァが死んで帝位に就く。即位の知らせを受けたのはライン川の陣中で、ローマに入ったのは1年以上あとだった。
元老院とは良い関係を保った。歩いてローマに入り、元老院議員と親しく挨拶を交わしたと伝わる。前の皇帝ドミティアヌスの恐怖政治の記憶が新しい中で、元老院は彼に「最良の元首」という称号を贈っている。

小プリニウスが執政官に就いたときに読み上げた皇帝への感謝の演説(『頌詞』)が残っていて、元老院の側から見た理想の皇帝像を伝えている。トラヤヌスは皇后プロティナとのあいだに子が無く、親族の子を手元で育てた。
101年から106年にかけて、ドナウ川の北のダキア戦争を二度戦った。ダキアの王デケバルスはローマを苦しめてきた相手で、二度目の戦いで追い詰められ自害する。ドナウには、ダマスカスのアポロドロスが設計した長大な石の橋が架けられた。ダキアは属州となり、そこの金山から大量の金がローマへ流れ込んだ。ダキアはこのあと160年余りローマの属州として続き、いまのルーマニアの国名とラテン系の言葉に、その名残を見る見方がある。

その富で、ローマの中心に新しい広場、半円形の市場、公衆浴場を作った。広場に立つトラヤヌスの記念柱には、ダキア戦争の場面が螺旋状の浮き彫りで刻まれ、ローマ兵の装備や行軍の様子を知る手がかりになっている。イタリアの貧しい家の子を養育する制度(アリメンタ)も始めた。地主に低利で貸し付け、その利子を子どもの養育にあてる仕組みである。
都の外でも工事が続いた。ローマの外港オスティアの近くに六角形の新しい港を掘り、穀物を運ぶ船が安全に着けるようにした。南イタリアには自分の名を冠したトラヤナ街道を通し、故郷に近いスペインのアルカンタラには、いまも車が渡る石の橋がこの時代に架けられている。広場には、ギリシア語とラテン語の書物を分けて収めた二つの図書館も置かれた。

小プリニウスとの往復書簡が残っている。属州総督だったプリニウスが細かいことまで皇帝に問い合わせ、トラヤヌスが短く答える。その中に、キリスト教徒をどう扱うべきかという問いがある。トラヤヌスは、探し出すな、名を伏せた密告は取り上げるな、ただし訴えられて認めた者は罰せよ、と答えた。迫害の実態を知る数少ない一次史料になる。
軍人としては最後の拡大者だった。113年、パルティアがアルメニアの王位に介入したのをきっかけに東方へ向かう。アルメニアを併合し、メソポタミアに攻め込んで、116年にはパルティアの都クテシフォンを落とした。ペルシア湾に着いたとき、インドへ向かう船を見て、自分が若ければアレクサンドロスのようにインドまで行ったのに、と嘆いたと歴史家カッシウス・ディオは伝える。この時期に帝国はローマ帝国の最大版図に達した。

だが、得た土地は保てなかった。メソポタミアで反乱が起き、同じ頃、エジプトやキュレネ、キプロスのユダヤ人社会でも大きな反乱が広がる。病に倒れたトラヤヌスはローマへ戻る途中、117年8月、小アジア南岸のセリヌスで死んだ。63歳。死の床で親族のハドリアヌスを養子にしたと皇后プロティナが発表したが、本当に本人の意思だったのかは、当時から疑われている。
記念柱の頂には、もとはトラヤヌスの像が立っていたが中世に失われ、16世紀に聖ペテロの像に置き換えられた。遺骨は金の壺に納められ、ローマに戻されて、自ら建てた記念柱の台座に安置されたと伝えられる。市の境界の内側に葬られることは、通常は許されない特別な扱いだった。柱は現在もローマの中心に立っている。

後を継いだハドリアヌスは、メソポタミアをすぐに手放し、守りに転じた。ハドリアヌスの長城がその象徴になる。トラヤヌスの拡大は、帝国の力の限界を示すことにもなった。それでも後世のローマでは、新しい皇帝に「アウグストゥスより幸運に、トラヤヌスより善良に」と願う言葉が贈られたと4世紀の歴史家は書いている。名君の基準として、長く名が残った。
中世のヨーロッパでも、異教徒の皇帝でありながら名は好意をもって語られた。息子を殺された寡婦の訴えを、出陣を遅らせてまで聞き届けたという伝説が広まり、ダンテは『神曲』で彼を天国に置いている。