できごと

第一次ポエニ戦争

First Punic War
BC264年 – BC241年
期間を持つできごと重要度 5
BC264年

概要

23年に及ぶ海の戦い。ローマは艦隊を一から作り、シキリアを最初の属州にした。

関わった人(1)

ハミルカル・バルカBC275年頃–BC228年冬 · 最後の6年を戦った

本文

紀元前3世紀の前半、ローマはイタリア半島の南端までを従えた。海の向こうのシチリアは、西半分をフェニキア人の植民市から大国に育った北アフリカのカルタゴが押さえ、東半分にはギリシア人の都市シュラクサイがあった。ローマとカルタゴはそれまで何度か条約を結び、互いの勢力圏を認め合う関係にあった。

きっかけは、シチリアの北東の端、イタリア本土と目と鼻の先にある町メッサナだった。かつて雇われていた傭兵の一団がこの町を乗っ取り、「マメルティニ(軍神マルスの子ら)」と名乗って居座っていた。シュラクサイの王ヒエロン2世に攻められた彼らは、カルタゴにもローマにも助けを求めた。ローマの民会は、カルタゴがメッサナを押さえればイタリアの喉元に手がかかると考え、出兵を決めた。紀元前264年、ローマの軍が初めて海を渡った。どちらも、23年続く全面戦争になるとは考えていなかった。

現代のペロポネソス半島に残されているポリュビオスの石碑
現代のペロポネソス半島に残されているポリュビオスの石碑Wikimedia Commons Jona Lendering, Livius Onderwijs · Public domain

陸ではローマが優勢だった。ヒエロン2世はまもなくローマ側に乗り換え、ローマ軍はカルタゴの拠点アクラガス(アグリゲントゥム)を落とした。だが、海をカルタゴの艦隊が支配している限り、シチリアの沿岸の町は海から補給を受けて持ちこたえる。ローマには、戦える海軍が無かった。

ポリュビオスによれば、ローマは座礁したカルタゴの五段櫂船を手本に、百隻あまりの軍船を造った。木を切ってから60日で海に浮かべたとも伝えられる。漕ぎ手は、船ができあがるまで陸に並べた漕ぎ座で櫂の動きを練習したという。それでも操船の腕ではカルタゴにかなわない。そこでローマは、船の舳先に「コルウス(カラス)」と呼ばれる渡し板を積んだ。敵の船に近づくと板を倒し、先端の鉤を相手の甲板に打ち込んで固定する。そこを歩兵が渡って斬り込む。海戦を陸戦に変える発想である。

カルタゴの海軍基地の跡が写っている航空写真。中央が商業港の跡であり、右下が軍港の跡である。第一次ポエニ戦争以前のカルタゴは西地中海で最も強力な海軍を擁していた。
カルタゴの海軍基地の跡が写っている航空写真。中央が商業港の跡であり、右下が軍港の跡である。第一次ポエニ戦争以前のカルタゴは西地中海で最も強力な海軍を擁していた。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

紀元前260年、執政官ドゥイリウスはこの仕掛けを使ってミュラエの海戦でカルタゴ艦隊を破った。ローマ初の海の勝利で、ローマの広場には分捕った船の衝角で飾った記念柱が建てられた。紀元前256年には、エクノモス岬の沖で両軍あわせて数百隻がぶつかる大海戦にも勝ち、執政官レグルスがアフリカに上陸した(レグルスのアフリカ遠征)。だが翌年、カルタゴに雇われたスパルタ人の傭兵隊長クサンティッポスに敗れ、レグルスは捕虜になった。彼が後に講和の使者としてローマに送られ、講和に反対したうえで約束通りカルタゴへ戻って殺されたという話は、後世に美談として語られたもので、史実かどうかは疑わしい。

23年のうちに、ローマは艦隊を嵐で何度も失った。アフリカから兵を引き揚げる途中の紀元前255年には、シチリアの南岸で嵐に遭い、ポリュビオスによれば364隻のうち生き残ったのは80隻ほどだった。一度に数万が沈んだ計算になり、古代の海難としては最大級になる。渡し板の重みで船の安定が悪くなったことも、被害を大きくしたと考えられている。コルウスはやがて使われなくなる。紀元前249年には、ドレパナの海戦で執政官クラウディウス・プルケルが大敗した。戦いの前の占いで神聖な鶏が餌を食べないと聞くと、食べないなら飲ませろと言って海に投げ込んだという逸話が残る。

2人のローマ軍の歩兵が彫られている紀元前2世紀に制作されたドミティウス・アヘノバルブスの祭壇(英語版)の細部
2人のローマ軍の歩兵が彫られている紀元前2世紀に制作されたドミティウス・アヘノバルブスの祭壇(英語版)の細部Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

それでもローマは作り直した。国庫が尽きると、裕福な市民が私財を出し合って新しい艦隊を造り、勝ったら返すという約束で国に貸した。損害を吸収して続ける仕組みの差が、最後に効いた。

その頃、シチリアの西部では、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカが山上の拠点に立てこもって、ローマ軍を相手に6年にわたる戦いを続けていた。陸の上では、ハミルカルは負けていなかった。だが紀元前241年、ローマの新しい艦隊がアエガテス諸島の沖で、補給物資を積んで駆けつけたカルタゴの艦隊を破った(アエガテス諸島の海戦)。補給を断たれたハミルカルは、本国の命令で講和を結ぶほかなかった。

紀元前125年に鋳造されたガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウスのデナリウス銀貨。裏面は祖先にあたるルキウス・カエキリウス・メテッルスの凱旋式を示唆した図柄となっており、パノルムスの戦いでメテッルスが捕らえた戦象の姿が描かれている。
紀元前125年に鋳造されたガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウスのデナリウス銀貨。裏面は祖先にあたるルキウス・カエキリウス・メテッルスの凱旋式を示唆した図柄となっており、パノルムスの戦いでメテッルスが捕らえた戦象の姿が描かれている。Wikimedia Commons CNG · Public domain

この戦争の経過を、私たちは主にギリシア人ポリュビオスの『歴史』で知っている。ポリュビオスは、ローマが半世紀あまりで地中海を制した理由を説き明かすために、この戦争から書き起こした。カルタゴの側の記録は残っておらず、艦船や兵の数にはポリュビオスの誇張があるとみる研究者もいる。

カルタゴはシチリアから手を引き、3200タラントンの賠償金を10年で払うことになった。その直後、給料を払ってもらえない傭兵たちがアフリカで反乱を起こし、カルタゴは存亡の危機に陥る。その混乱に乗じて、ローマはサルディニアとコルシカまで奪い取った。

第一次ポエニ戦争期を含む凱旋式を挙行したローマ人の名前が刻まれている凱旋式のファスティの断片
第一次ポエニ戦争期を含む凱旋式を挙行したローマ人の名前が刻まれている凱旋式のファスティの断片Wikimedia Commons Rossignol Benoît · Public domain

シチリアは、ローマが初めて海の外に持った領土になった。のちに法務官が総督として送られ、住民から収穫の十分の一を税として取る形が整えられる。イタリアの同盟市とは違う、海の外の土地を治める「属州」という形は、ここから始まった。ハミルカルは失った領土の埋め合わせをイベリア半島に求め、その子ハンニバル・バルカがやがてローマへの復讐の戦いを始める(第二次ポエニ戦争)。

出典(1)

塩野七生 『ローマ人の物語』II ハンニバル戦記

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