できごと

マグネシアの戦い

Battle of Magnesia
BC190年
重要度 4
マグネシアの戦いに関わる図版:Battle of Magnesia
Battle of Magnesia Wikimedia Commons Alexander Conze (1831-1914) · Public domain

概要

セレウコス朝の大王アンティオコス3世が、ハンニバルを迎えていたことをローマは許さなかった。小アジアで7万の軍が破れ、アンティオコスはタウルス山脈の向こうへ引き、賠償金1万5000タラントを払った。東地中海の主が決まった。

場所

マグネシア
38.62°N 27.42°E · トルコ・マニサ

関わった人(1)

アンティオコス3世(大王)BC241年–BC187年 · 大王

本文

アレクサンドロス大王の死後、その帝国は部下の将軍たちに分けられた。その中で最も広い領土を受け継いだのが、シリアからメソポタミア、イランにまたがるセレウコス朝である。しかし3世紀の後半になると、東ではバクトリアとパルティアが離れ、西の小アジアでも地方の勢力が独立して、王国は縮んでいた。紀元前223年、その王位に18歳で就いたのがアンティオコス3世(大王)である。

アンティオコスは、失われた領土を取り戻すことに生涯をかけた。紀元前212年から数年をかけて東方へ大遠征し、アルメニア、パルティア、バクトリアの王たちを従わせ、ヒンドゥークシュを越えてインドの入り口まで達した。人々は彼を「大王(メガス)」と呼んだ。紀元前200年ごろには、エジプトのプトレマイオス朝とのパニオンの戦いに勝ち、長年争ってきたパレスティナとフェニキアを手に入れた。さらに小アジアの西岸からヘレスポントス海峡を越え、ヨーロッパ側のトラキアにまで足場を築いた。アレクサンドロスの後継者として、かつての帝国を再び一つにする。それが彼の夢だった。

同じころ、西ではローマが地中海の主になりつつあった。紀元前201年に第二次ポエニ戦争でカルタゴを降し、紀元前197年にはキュノスケファライの戦いでマケドニア王フィリッポス5世を破った。ローマの将軍フラミニヌスは、ギリシアの諸都市の自由を宣言し、ギリシアの守り手としてふるまっていた。そこへ東から勢力を伸ばしてくるアンティオコスは、ローマにとって見過ごせない存在だった。

キュノスケファライの戦いに関わる図版:Macedonia and the Aegean World c.200
キュノスケファライの戦いWikimedia Commons Kryston · Public domain

両者の対立を深めたのがハンニバル・バルカである。紀元前195年、ローマの圧力でカルタゴを追われたハンニバルは、アンティオコスのもとへ逃れた。ローマの最大の敵が、東方の大王の宮廷にいる。ローマにとってこれほど不穏なことはなかった。ただアンティオコスは、ハンニバルに大軍を任せることはしなかった。自分の栄光を他人に譲りたくなかったとも、異国の将軍を信じきれなかったとも言われる。

紀元前192年、ローマと対立していたギリシアのアイトリア同盟に招かれ、アンティオコスはわずか1万ほどの兵でギリシアに渡った。だが期待したほどギリシア人は味方に付かず、紀元前191年、テルモピュライの隘路でローマ軍を迎え撃った。かつてペルシア戦争で名高い戦いがあった場所である(テルモピュライの戦い)。ローマ軍の副将だった大カトーが山道を回り込んで背後を突き、アンティオコスは敗れてアジアへ逃げ帰った。

テルモピュライの戦いに関わる図版:Léonidas aux Thermopyles - Jacques-Louis David - Musée du Louvre Peintures INV 3690 ; L 3711
テルモピュライの戦いWikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

ローマは追撃の手を緩めなかった。紀元前190年、ローマとロドスの艦隊は海戦で相次いでセレウコスの艦隊を破った。そのうちの一つでセレウコス側の艦隊を率いていたのはハンニバルだったが、彼もロドスの艦隊に敗れている。海の守りを失ったアンティオコスの前で、ローマ軍は初めてヘレスポントスを渡り、ヨーロッパからアジアへ進んだ。指揮をとったのは執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオで、その兄弟で、ザマでハンニバルを破った大スキピオが補佐として同行していた。だがアフリカヌスは病に倒れ、決戦の場には出なかった。

決戦は紀元前190年の末、あるいは紀元前189年の初めに、小アジア西部、シピュロス山のふもとのマグネシアで行われた。古代の歴史家リウィウスによれば、アンティオコスの軍は7万を超え、重装の歩兵の密集隊(ファランクス)、騎兵、鎌を付けた戦車、ラクダに乗った弓兵、そして50頭を超える象をそろえていた。ローマ側は、同盟するペルガモン王エウメネス2世の兵を合わせても3万ほどだったとされる。

マグネシアの戦いまでの戦争経過と主要な戦闘地点
マグネシアの戦いまでの戦争経過と主要な戦闘地点Wikimedia Commons Kryston · Public domain

戦いは、はじめアンティオコスに有利に見えた。王みずから率いる右翼の騎兵がローマ軍の左翼を突き崩し、そのままローマの陣営まで追いかけていった。だがその間に、反対側ではエウメネスの弓兵や投石兵が鎌付き戦車の馬を狙い撃ちにした。傷ついた馬は暴れて引き返し、味方の左翼に突っ込んで陣を乱した。そこへローマとペルガモンの騎兵が襲いかかった。中央のファランクスは、間に象を配していたため身動きがとれず、ローマ兵の投げ槍を浴びた。驚いた象が暴れ出して密集隊を内側から崩し、陣は総崩れとなった。王が戦場に戻ったときには、もう勝敗は決していた。

リウィウスは、アンティオコス側の死者を5万あまり、ローマ側の死者を数百と書いている。勝った側の記録らしく、どちらの数も誇張されていると考えられている。

マグネシアの戦い第1局面の図
マグネシアの戦い第1局面の図Wikimedia Commons Theodore Ayrault Dodge · Public domain

紀元前188年、アパメアの和約が結ばれた。アンティオコスは、タウルス山脈より北と西の小アジアを放棄し、軍艦は10隻までに減らし、象はすべて引き渡すことになった。賠償金は1万5000タラント。そのうち1万2000タラントを12年かけて払うという、当時としては途方もない額だった。のちに王となる息子のアンティオコス4世エピファネスは人質としてローマへ送られた。小アジアの土地は、ローマの忠実な同盟者だったペルガモンとロドスに分け与えられた。ローマは自ら領土を取らず、味方の国を太らせることで東地中海を間接的に押さえた。

和約はハンニバルの引き渡しも求めていた。ハンニバルはクレタ島などを経て小アジアのビテュニアへ逃れたが、ローマの追及はやまず、紀元前183年ごろ、毒をあおって命を絶った(ハンニバルの死)。アンティオコスも、賠償金の支払いに苦しんだ末、紀元前187年、イラン西部のエリマイスで神殿の財宝を奪おうとして住民に殺された。

マグネシアの戦い第2局面の図
マグネシアの戦い第2局面の図Wikimedia Commons Theodore Ayrault Dodge · Public domain

マグネシアの戦いの後、東地中海にローマと正面から争える国はなくなった。セレウコス朝はシリアとメソポタミアを中心とする国に縮み、マケドニアも紀元前168年のピュドナの戦いで滅びへ向かう。ローマが地中海全体の主になる道筋は、この戦いでほぼ定まった。

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