人物

ウィレム・バレンツ

Willem Barentsz
AD1550年頃 – AD1597年6月20日(享年47・推定)
ネーデルラント重要度 3

概要

アムステルダムの地図製作者。北東航路を三度。スピッツベルゲンとベーレン島を見つけた。ノヴァヤゼムリャで越冬。「氷の家」。帰りのボートで死んだ。ヘリット・デ・フェールが日記を書いた。海の名。

関わったできごと(1)

バレンツの越冬AD1596年 · 死んだ

本文

ウィレム・バレンツは、1550年頃、オランダ北部のテルスヘリング島に生まれた。名のバレンツゾーンは「バレントの息子」という意味である。若い頃のことはほとんど分からないが、船乗りとして経験を積み、アムステルダムで地図と海図を作る仕事に就いた。神学者で地理学者のペトルス・プランシウスと組み、1595年には地中海の海図帳を出している。

ウィレム・バレンツの肖像
ウィレム・バレンツの肖像Wikimedia Commons Dit bestand heeft geen gegevens over de auteur. · Public domain

当時のネーデルラントは、スペインからの独立をかけた戦いのさなかにあった。アジアの香料を手に入れる南回りの航路は、ポルトガルとスペインに押さえられていた。そこでアムステルダムの商人たちは、ヨーロッパの北を回ってロシアとシベリアの沖を東へ進み、中国や日本へ抜ける北東航路の可能性に賭けた。プランシウスは、夏の北極の海は太陽が沈まないため氷が溶け、通り抜けられると考えていた。バレンツはその構想を実地に確かめる航海者になった。

1594年の最初の航海で、バレンツはノルウェーの北を回り、ロシアの北の細長い列島ノヴァヤゼムリャの西岸を北へ進んだ。北端の近くまで達したが、氷山と氷に阻まれて引き返した。翌1595年には7隻の船団で、今度はノヴァヤゼムリャの南の海峡を抜けようとしたが、早く張った氷に阻まれ、成果なく帰った。出資者たちは手を引き、アムステルダムの市が報奨金をかけて、民間の挑戦を募ることになった。

ウィレム・バレンツの最期
ウィレム・バレンツの最期Wikimedia Commons Christiaan Julius Lodewijk Portman · Public domain

1596年5月、2隻の船が出航した。バレンツは、ヤーコプ・ファン・ヘームスケルクが指揮する船の航海士として乗り組んだ。6月、一行は北の海で小さな島を見つけ、上陸した船員たちが白熊を仕留めたことから「熊島」(ベーレン島)と名づけた。さらに北へ進むと、尖った山の連なる大きな陸地が見えた。彼らはこれを「尖った山々」(スピッツベルゲン)と呼んだ。記録に残るヨーロッパ人による最初の発見である。

ここで2隻は意見が分かれて別れ、バレンツの船は東へ向かってノヴァヤゼムリャの北端を回った。だが8月の終わり、北東岸の入り江で船は氷に閉じ込められ、氷の圧力で船体が持ち上げられて、二度と動かなくなった。17人の男たちは、ここで北極の冬を越すことを決めた(バレンツの越冬)。

ウィレム・バレンツの肖像(1883年の描写)
ウィレム・バレンツの肖像(1883年の描写)Wikimedia Commons Unidentified engraver · Public domain

彼らは浜に打ち上げられた流木と船の材木で小屋を建て、「保たれた家」と名づけた。11月の初めには太陽が地平線の下に沈み、極夜が3か月近く続いた。寒さは厳しく、小屋の中の壁にも霜が厚くつき、靴は凍りついた。狐を罠で捕らえて食べ、その毛皮で身を包んだ。白熊はたびたび小屋を襲った。暖を取るために船から運んだ石炭を燃やし、煙突をふさいだ夜には、煙に巻かれて全員が死にかけた。それでも彼らは規律を保ち、壊血病に苦しみながら冬を越した。極夜の明ける日を、彼らは予想より2週間ほど早く迎えた。のちに、極地の空気による光の屈折で太陽が早く見える現象として知られるようになる。

1597年6月、船を氷から出すことをあきらめた一行は、2艘の小舟で南へ向かった。バレンツはすでに重い病にかかっていた。出発の前に、彼は小屋の煙突に、それまでの経緯を書いた手紙を残した。

1595年8月6日、第2次航海で副提督の船と衝突しかけたバレンツの旗艦「金の犬」
1595年8月6日、第2次航海で副提督の船と衝突しかけたバレンツの旗艦「金の犬」Wikimedia Commons Anonymous engraver · CC0

6月20日、小舟の上で、バレンツは死んだ。47歳ほどだった。同じ日、船員のクラース・アンドリースゾーンも死んだ。乗組員のヘリット・デ・フェールは、その最期を書き残している。仲間の容態が悪いと聞いたバレンツは、自分もそう長くはないだろうと言い、それからまもなく息を引き取った、と。遺体は北極の海か岸辺に葬られたと考えられているが、場所は分かっていない。

残った12人は、1600キロを超える小舟の旅の末、ロシアのコラ半島でかつて別れたもう1隻の船と再会し、1597年11月、アムステルダムに帰り着いた。彼らは、飢えに苦しみながらも、預かった商品の布には最後まで手をつけなかったと伝えられ、オランダの商人の誠実さの物語として語り継がれた。

ホッキョクグマと戦うバレンツの船員たち(ヘリット・デ・フェール画、1596年)
ホッキョクグマと戦うバレンツの船員たち(ヘリット・デ・フェール画、1596年)Wikimedia Commons Public domain

デ・フェールは1598年に、三度の航海の記録を本にまとめた。白熊との戦い、極夜、オーロラ、氷に閉ざされた小屋の暮らしを、挿絵とともに描いたこの本は、ヨーロッパの各国語に訳されてよく読まれた。北極の冬を越して生還したヨーロッパ人の、最初の詳しい記録である。

北東航路の夢は、オランダではこれでほぼ途絶えた。オランダ人は南回りでアジアへ向かい、1602年にはオランダ東インド会社の設立に至る。北の航路の探索は、のちにヘンリー・ハドソンらに引き継がれ、ハドソンは北西の航路を探す旅の果てに消息を絶つ(ハドソン湾の発見と遭難)。北東航路を船が初めて通り抜けたのは、バレンツの死から280年ほどのちの1878年から翌年にかけての、スウェーデンのノルデンショルドの航海だった。

バレンツの第3次航海による北極全域の地図(1598年)
バレンツの第3次航海による北極全域の地図(1598年)Wikimedia Commons Original charts by Willem Barentsz, map drawn by Cornelis Claesz ("Cornelius Nicolai"), engraved by Baptista van Doetecu · Public domain

1871年、ノルウェーの船長がノヴァヤゼムリャで「保たれた家」の跡を見つけ、時計や銃、本、笛などの遺品が掘り出された。数年後には、バレンツが煙突に残した手紙も見つかった。遺品はいまアムステルダム国立美術館に収められている。ヨーロッパの北の海は19世紀に彼の名をとって「バレンツ海」と呼ばれるようになった。その海は今では石油と天然ガスの産地として知られ、2010年にはノルウェーとロシアが、長く争ってきたこの海の境界線を条約で定めた。北極の氷が減るにつれ、彼が夢見た北東航路を、商船が夏に行き交う時代が来ている。

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