人物

ゲラルドゥス・メルカトル

Gerardus Mercator
AD1512年3月5日 – AD1594年12月2日(享年82)
神聖ローマ帝国重要度 4

概要

フランドルの靴屋の子。ルーヴァンで数学と地理と測量、そして銅版彫刻を学んだ。地球儀と天球儀を作り、測量器具を売って生計を立てた。1544年、異端の嫌疑で7か月投獄された(同じ罪状で処刑された者もいた)。1552年、プロテスタントを認めるデュースブルクへ移住。1569年の世界図で等角航路を直線にした。地図帳に「アトラス」の名を与えたのも彼(天を担ぐ巨人ではなく、伝説の天文学者アトラス王にちなむ、と序文で書いている)。

所属

神聖ローマ帝国

関わったできごと(1)

メルカトルの図法AD1569年 · 考案した

本文

ゲラルドゥス・メルカトルは1512年3月5日、フランドルのスヘルデ川沿いの村ルペルモンデ(現ベルギー)に生まれた。生まれたときの名はヘラルト・クレーマー。父ヒューベルトは貧しい靴職人で、ヘラルトは7人目の子だった。

ゲラルドゥス・メルカトルの肖像
ゲラルドゥス・メルカトルの肖像Wikimedia Commons Public domain

父が早く死ぬと、司祭をしていた親族のヒスベルトが少年の面倒を見て、スヘルトーヘンボスにある共同生活兄弟団の学校へ送った。かつてエラスムスも学んだ学校である。ここでラテン語を身につけ、当時の学者の習いに従って名をラテン語に改めた。クレーマー(行商人)を訳した「メルカトル(商人)」である。

1530年、ルーヴァン大学に入り、哲学を学んだ。しかし彼は、アリストテレスの説く宇宙の仕組みと聖書の天地創造の記述が合わないことに深く悩み、学位を取ったあと大学を離れ、しばらくアントウェルペンなどで独りで考え続けた。神学の問いは生涯消えなかったが、関心はしだいに、神が造った世界をそのとおりに描き出すことへ移っていった。

メルカトルの双心臓形図法による世界図(ニューヨーク公共図書館)
メルカトルの双心臓形図法による世界図(ニューヨーク公共図書館)Wikimedia Commons Gerardus Mercator · Public domain

ルーヴァンに戻った彼は、数学者ゲンマ・フリシウスに弟子入りした。フリシウスは、三角測量で土地を測る方法を最初に書物にまとめ、正確な時計を持ち運べば経度が分かるという原理を初めて書いた人でもある。メルカトルはここで三つの技を身につけた。数学と測量、銅版の彫刻、そして細く美しい斜めの書体である。地図の文字を彫るためのこの書体について、彼はのちに教本まで出している。

暮らしは、器具を作って売ることで立てた。アストロラーベ、天球儀、地球儀、測量の道具である。1536年にはフリシウスらと地球儀を作り、のちには皇帝カール5世のための観測器具も手がけた。同じ年にバルバラ・シェレケンスと結婚し、6人の子をもうけた。1537年に聖地パレスチナの地図、1538年に小さな世界図を出した。この世界図で彼は、アメリゴ・ヴェスプッチにちなむ「アメリカ」の名を、北と南の両方の大陸に当てている。

メルカトルの天球儀(部分)
メルカトルの天球儀(部分)Wikimedia Commons Ulrichulrich · CC BY 3.0

1544年2月、彼は異端の疑いで捕らえられた。ルーヴァンを留守にしがちだったこと、プロテスタントに近いと見られる人々とつき合いがあったことが疑われた。同じ取り調べで40人あまりが捕らえられ、そのうち何人かは処刑された。男は火あぶりや斬首に、女は生き埋めにされた者もいる。メルカトルは生まれ故郷ルペルモンデの城に7か月閉じ込められたが、大学や司祭たちのとりなしもあって、証拠不十分で解き放たれた。この体験について、彼はほとんど何も書き残していない。

1552年、彼はカトリックの支配が厳しいネーデルラントを離れ、ライン川沿いのデュースブルクへ移った。クレーフェ公の領地で、信仰に比較的寛容な土地だった。以後42年、死ぬまでこの町で暮らした。

メルカトルの1569年世界図
メルカトルの1569年世界図Wikimedia Commons Gerardus Mercator · Public domain

1569年、18枚の紙をつなぐ大きな世界図を出した。題は『航海者の使用のために新しく増補された地球全図』。緯度が高くなるほど南北の間隔を広げていく作りで、コンパスで一定の方角を保って進む航路が、地図の上では一本の直線になる(メルカトルの図法)。その代わり、極に近い土地ほど大きく描かれる。彼はどう間隔を広げればよいかを図の上で工夫して示したが、それを計算で裏づける式は、30年後にイギリスのエドワード・ライトがまとめた。船乗りたちがこの図法を本当に使い始めるのは、さらにその後である。

同じ年には、天地創造から当時までの出来事を並べた『年代記』も出している。日食や月食の記録から年代を確かめようとした試みだったが、ルターの宗教改革に触れていたため、カトリック教会の禁書目録に入れられた。

ゲラルドゥス・メルカトルの肖像
ゲラルドゥス・メルカトルの肖像Wikimedia Commons Frans Hogenberg · Public domain

彼は、世界のすべてを描き尽くす大きな仕事を思い描いていた。天地の創造、天空、地上の三つである。そのうち地上の部分が地図帳になった。1585年にフランス・ドイツ・ネーデルラントの地図51枚を、1589年にイタリアとギリシアの地図23枚を出した。1594年12月2日、デュースブルクで死んだ。82歳だった。

翌1595年、息子ルモルトが残りの図を加えて、一冊にまとめて刊行した。題は『アトラス、あるいは世界の創造と創造されたものについての宇宙誌的考察』。序文で彼は、この名は天を担ぐ巨人ではなく、哲学者で天文学者でもあったマウレタニアの王アトラスにちなむと書いている。そのアトラス王が実在した証拠はなく、彼が別の伝承を取り違えたのか、あえて選んだのかは分からない。それでもこの語は、以後、地図帳を指す普通の言葉になった。

現在のベルギー、ルーペルモンデ(『フランドリア図絵』より、1641年)
現在のベルギー、ルーペルモンデ(『フランドリア図絵』より、1641年)Wikimedia Commons Antonius Sanderus · Public domain

彼は自分で遠くまで測りに出る人ではなく、集め、考え、彫る人だった。集めた地誌の中には不正確なものも多い。それでも、1604年にアムステルダムのホンディウスが彼の銅版を買い取り、彼の名を冠した地図帳を出し続けたことから、17世紀のオランダの地図出版の黄金期(オランダの黄金時代)が始まった。

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