バントゥー系の拡散

概要
農耕と製鉄を携えてアフリカ大陸の南半分へ広がった。いまの言語分布の骨格を作る。
場所
-4.44°N 15.27°E · コンゴ民主共和国
本文
アフリカの地図に話されている言葉を塗り分けていくと、赤道のやや北から喜望峰の近くまで、大陸の南半分のほとんどが、一つの語族の色で埋まる。バントゥー諸語である。スワヒリ語、ズールー語、コサ語、ショナ語、リンガラ語、キクユ語、コンゴ語。数は数百にのぼり、話す人は合わせて数億人になる。互いに通じないほど違っていても、人を指す語の頭に「ム」、その複数に「バ」を付けるような、名詞を種類ごとに分けて頭に印を付ける仕組みを共通して持つ。「バントゥー」という呼び名自体が、多くの言語で「人々」を意味する語から取られている。
これほど広い範囲に、これほどよく似た言語が分布しているのは、比較的近い時代に、一つの集団の言葉が広がったからだと考えられている。比較言語学の手法で、どの言語が互いに近いか、どこに最も多様な言語が集まっているかを調べると、源郷はいまのナイジェリアとカメルーンの国境あたりの草原地帯に絞られる。1940年代末に言語学者グリーンバーグが唱え、その後の研究でおおむね支持された。

広がりの始まりの時期には幅がある。紀元前3000年から前1000年頃とされ、数千年かけて大陸の南端近くまで進んだ。一気に軍勢が進むような移動ではなく、村が少し離れたところに新しい村を作り、それが何十世代も繰り返された、と考えるほうが実態に近い。
携えていたのは農耕だった。最初はヤムイモやアブラヤシ、ササゲといった、西アフリカの湿った土地の作物である。東へ進んだ人々は、途中でモロコシやトウジンビエといった乾燥に強い雑穀と、牛や羊の牧畜を取り入れた。東南アジア原産のバナナも、インド洋をまたいで東アフリカに届き、森の多い地域の主食になった。到着の時期は、まだはっきりしない。
もう一つが鉄である。ただし、広がりが始まった時点で鉄を持っていたわけではなく、途中で製鉄を取り入れたとされる。西アフリカではノク文化の製鉄が紀元前1千年紀半ばに鉄を作っていた。東アフリカのヴィクトリア湖の西岸では、紀元前1千年紀のうちに製鉄を行う農耕民の文化が現れ、ここが東と南への広がりの起点の一つになった。製鉄がアフリカで独自に始まったのか、外から伝わったのかは、鉄が広まるをめぐる議論の中でも決着していない。
道筋は、大きく二つに分かれたと考えられている。一つは、赤道の熱帯雨林を抜けて南のアンゴラ方面へ下る西の流れ。もう一つは、森の北の縁を東へ回って大湖地方に至り、そこから東アフリカの海岸と南部アフリカへ下る東の流れである。ただし実際の枝分かれはもっと複雑で、研究者によって描き方が異なる。熱帯雨林を越えられたのは、紀元前1千年紀の中頃に気候が乾いて森が縮み、サバンナの回廊が開いたからだという説がある。
南部アフリカの東側には、紀元後の最初の数世紀のうちに農耕民の村が現れる。いまの南アフリカ共和国の東部に達したのは、紀元後3世紀から4世紀頃とされる。そこから先、西側の乾燥した地域には、農耕に向かない土地が広がっていた。
先に暮らしていた人々がいた。熱帯雨林には、いわゆるピグミー系の狩猟採集民がいる。南部と東部の乾燥地には、コイサン系の人々がいた。農耕民の到来で、彼らは森の奥や砂漠へ退いた者もいれば、農耕民と混じり合った者もいる。2010年代に進んだ古代のDNAの研究は、農耕民の大規模な移動があったことを裏付けると同時に、各地で先住の人々との混血が起きていたことを示した。
言葉にも、その出会いの跡が残っている。ズールー語やコサ語には、舌打ちのような吸着音がある。これはバントゥー諸語にはもともと無く、コイサン系の言語から取り入れられた音である。
「バントゥー」という呼び名は、19世紀にドイツの言語学者ブレークが、これらの言語の共通性に気づいて名付けたものである。のちに南アフリカのアパルトヘイト体制は、この語を黒人を指す行政用語として使い、「バントゥー教育」や「バントゥースタン」といった差別政策の名に冠した。そのため南アフリカでは、人を指す言葉としては今も避けられることが多く、学術上の語族の名として使われている。
広がった先で、それぞれの社会が育った。東アフリカの海岸では、バントゥー系の住民がインド洋交易に加わり、アラビア語の語彙を大量に取り込みながら、スワヒリ海岸の交易都市の都市とスワヒリ語を生んだ。南部では、牛と金の交易を基盤に、石造りの都グレート・ジンバブエの繁栄が築かれる。中央アフリカの西では、のちのコンゴ王国とポルトガルの接触に見えるコンゴ王国が現れた。
この広がりには、文字の記録がまったく無い。それでも、どこから出て、どの順で、どの方向へ進んだのかが、ある程度まで描ける。言語の系統、土器の様式、炭化した作物、鉄を溶かした炉の跡、そして人骨のDNAという、性質の違う証拠を突き合わせた結果である。いまアフリカで話されている言葉の分布そのものが、記録されなかった数千年の移動の記録になっている。