ラピタ土器の広がり
概要
同じ文様の土器がニューギニアからトンガまで点々と現れる。太平洋へ出ていった人々の足跡そのもの。
場所
-21.13°N -175.20°E · トンガ周辺(ラピタ文化の広がり)
本文
1952年、アメリカの考古学者たちが、南太平洋のフランス領ニューカレドニアの海辺のラピタという場所で、変わった土器のかけらを掘り出した。器の表面に、櫛の歯のような細かい道具を押しつけて、点の連なりで複雑な幾何学の文様を描いている。渦や帯、ジグザグの間に、人の顔を思わせる図柄も見える。同じような文様の土器はそれ以前から各地で見つかっていたが、やがてそれが、ニューギニアの東の沖からフィジー、トンガ、サモアまで、太平洋の島々に点々と残っていることが分かった。発掘地の名をとって、ラピタ土器、ラピタ文化と呼ばれる。
最も古いラピタの遺跡は、ニューギニアの北東に浮かぶビスマルク諸島にあり、およそ3300年前、BC14世紀前後にさかのぼるとされる。そこからラピタの人々は東へ向かった。ソロモン諸島の先には、それまで誰も住んだことのない島々が広がっていた。数万年前から人が住んでいたニューギニアやソロモンの島々は、互いに見通せる距離に並んでいたが、その先のヴァヌアツ、ニューカレドニア、フィジーへは、何百キロもの外洋を渡らなければならない。ラピタの人々は、人類で初めてその海を越えた。

広がりは驚くほど速かった。BC11世紀からBC10世紀ごろにはヴァヌアツやフィジーに、BC9世紀ごろにはトンガとサモアに達している。数百年のうちに、東西4000キロを超える範囲に、同じ流れの文様を持つ土器が残された。トンガの遺跡からは、その最初の到着が、数十年の幅にまで絞り込める形で年代測定されたものもある。
彼らはどこから来たのか。ラピタの人々が話していたのは、台湾から東南アジアの島々を経て広がったオーストロネシア語族の言葉だったと考えられている。ヴァヌアツのエファテ島のテオウマで見つかったラピタ期の墓地の人骨からDNAを調べたところ、最初に住みついた人々は、ニューギニアの人々の血をほとんど引いておらず、東アジアの島々の人々に近い祖先を持っていたことが、2016年に報告された。その後の世代では、ニューギニアやビスマルク諸島の人々との混血が進んだことも分かっている。ラピタの文化は、遠くから来た人々と、もとから近くの島々に住んでいた人々の交わりの中で生まれたと考えられている。

ラピタの人々は、ただ海を渡ったのではない。新しい島で暮らすための一式を、カヌーに積んで運んだ。豚、鶏、犬。タロイモ、ヤムイモ、バナナ、パンノキなどの苗。人のいない島には、食べられる大きな動物も、育てられる作物もほとんどなかったからである。遺跡からは、魚やウミガメ、貝、海鳥の骨も大量に出ており、着いたばかりの人々が、まず島の豊かな海と鳥に頼って暮らしたことが分かる。帆とアウトリガー(舷外浮材)を備えたカヌーが、それを可能にした。
移り住んだ後も、島々のあいだの行き来は途切れなかった。ビスマルク諸島のニューブリテン島タラセアで採れる黒曜石が、数千キロ離れたフィジーの遺跡からも見つかっている。黒曜石は刃物の材料になる火山ガラスで、産地ごとに成分が違うため、どこから運ばれたかをたどることができる。住みついた島から戻ることも、別の島を訪ねることもできる航海の技術と、島をまたいだ人のつながりがあった。
トンガとサモアに着いた後、東への広がりは長く止まった。この地で、ラピタの人々の子孫は1000年以上をかけて、ポリネシア人と呼ばれる人々の言葉と文化を育てていった。島々のあいだでは、のちのサモアとトンガの海の交流につながる行き来が続いた。土器の文様はしだいに簡単になり、やがてこの地域では土器そのものが作られなくなる。ラピタの土器の文様が、後のポリネシアの入れ墨や樹皮布の模様に受け継がれたと見る研究者もいる。
紀元1000年前後から、その子孫たちは再び東へ漕ぎ出し、ポリネシア人の太平洋拡散の最後の大きな波となって、ハワイ、ラパ・ヌイ(イースター島)、そしてアオテアロアへの到達へと至る。点々と残されたラピタ土器のかけらは、その長い旅の最初の足跡である。