コロンブスの到達
概要
二つの大陸が結ばれた。人・作物・家畜・病原体が行き来し、両側の世界が作り替えられる。
場所
24.05°N -74.50°E · バハマ(上陸地点に諸説ある)
関わった人(2)
イサベル1世AD1451年4月22日–AD1504年11月26日 · 航海を支援したコロンブスAD1451年頃–AD1506年 · 当人本文
1492年10月12日の未明、大西洋を西へ進んでいた3隻の船のうち、先頭を行くピンタ号の見張りが、月明かりに白く光る陸を見つけて叫んだ。夜が明けて上陸したのは、カリブ海の北、いまのバハマ諸島の小さな島だった。島に住む人々はそこをグアナハニと呼んでいたが、コロンブスは「聖なる救い主」を意味するサン・サルバドルと名づけ、スペインの王と女王のものだと宣言した。その瞬間から、それまで互いを知らずにいた二つの大陸が結ばれる。
コロンブスは、イタリアのジェノヴァの生まれとされる。若い頃から船に乗り、ポルトガルに移って大西洋の航海を重ねた。当時のポルトガルは、アフリカの西岸を南へ下ってインドへ向かう航路を開こうとしていた。コロンブスは逆に、西へまっすぐ進めばアジアに着くはずだと考え、ポルトガル王に航海の支援を願い出た。王の諮問を受けた専門家たちは、この計画を退けた。

地球が丸いことは、当時の教養ある人々にとって常識だった。コロンブスが地球は平らだと信じる人々に逆らったという話は、19世紀にアメリカの作家が広めた作り話である。問題は、地球の大きさだった。コロンブスは、アジア大陸が実際よりはるか東へ伸びていると考え、さらにマルコ・ポーロが伝えた黄金の島ジパングが、その東の沖にあると見た。そのうえで地球の一周を小さく見積もった。古い学者の残した緯度1度の長さを、それより短い単位で読み違えたためだとも言われる。こうしてカナリア諸島から日本までの距離を、実際のおよそ4分の1にまで縮めてしまった。紀元前3世紀にエラトステネスが出した地球の大きさのほうがずっと正確で、それを踏まえていた学者たちが反対したのは、もっともなことだった。そのままの距離なら、途中で食料も水も尽きていたはずである。
ポルトガルに断られたコロンブスは、スペインへ移った。カスティーリャの女王イサベル1世とアラゴンの王フェルナンドの宮廷でも、委員会は計画に否定的だった。転機は、1492年1月、イベリア半島に残ったイスラム勢力の最後の拠点グラナダが陥落したことだった(レコンキスタの完了)。戦いを終えた王室は、ようやく西への航海に目を向けた。4月、コロンブスは、見つけた土地の副王と総督になり、そこから上がる利益の10分の1を受け取るという約束を取りつけた。

8月3日、サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻、90人ほどが南スペインのパロス港を出た。カナリア諸島で船を直し、9月6日に西へ向かって出帆する。コロンブスの航海日誌は、のちに修道士ラス・カサスが要約したものが残っている。それによれば、提督は乗組員を不安にさせないように、毎日進んだ距離を実際より短く伝えていた。陸の見えない日が1か月を超え、10月の初めには船乗りたちの不満が高まった。鳥の群れや、枝の付いた木切れが流れてくるのを見て、ようやく陸が近いことが分かった。
陸を最初に見つけた者には、王室から年金が約束されていた。見張りの水夫が陸を見つけたのは10月12日の午前2時頃だったが、コロンブスは、自分が前の晩に陸の灯りを見ていたと主張し、年金を自分のものにした。上陸した島が今のどの島かも、実ははっきりしない。バハマのサン・サルバドル島が最も有力とされるが、別の島とする説もある。

本人は、死ぬまでアジアの東の端に着いたと信じ続けた。キューバを中国の一部だと考え、そこに住む人々を「インディオ(インドの人)」と呼んだ。その呼び名は誤りの名残として、いまも使われている。航海日誌には、出会ったアラワク系の人々が武器を持たず、穏やかで、よい召使いになるだろう、と書いている。最初の出会いの日から、彼らは支配の対象として見られていた。
コロンブスはキューバとイスパニョーラ島を巡り、クリスマスの夜にサンタ・マリア号を座礁させた。残った船に全員は乗れず、39人を島に残して、翌1493年3月にスペインへ帰り着く。王室は大いに喜び、その年の秋には17隻、千人を超える第2回の航海が送り出された。ところが島に戻ってみると、残した39人は全員が死んでいた。

その後の航海で、コロンブスは南アメリカの北岸にまで達したが、植民地の統治では失敗を重ねた。先住民に金を納めさせ、納めない者を罰し、反抗する者を奴隷として本国へ送った。スペイン人の入植者の間でも反乱が起き、1500年には王室から送られた調査官によって鎖につながれて本国へ送り返された。最後の航海から戻った2年後の1506年、スペインで死んでいる。地位は回復したが、約束された富の多くは手にできなかった。
この新しい土地がアジアではないことは、まもなく明らかになった。1507年、ドイツの地図製作者が、新しい大陸に、航海者アメリゴ・ヴェスプッチの名を取って「アメリカ」と書き入れた(「新大陸」という認識)。スペインとポルトガルは、1494年のトルデシリャス条約で、大西洋に引いた線を境に、まだ見ぬ土地を分け合う約束をしていた。

この到達がもたらしたものは、征服だけではない。じゃがいも、とうもろこし、トマト、唐辛子、カカオ、タバコが旧世界へ渡り、小麦、サトウキビ、馬、牛、豚、羊が新世界へ渡った。のちにコロンブス交換と呼ばれる動きである。アンデスのじゃがいもは、やがてヨーロッパの貧しい人々の命を支え、中南米の唐辛子はアジアの料理を変えた。
そして天然痘が渡った。アメリカ大陸の人々は、旧世界の病気に免疫を持っていなかった。天然痘、麻疹、インフルエンザが、スペイン人の剣より先に広がった(天然痘のアメリカ大陸上陸)。イスパニョーラ島の先住民は、強制労働と病気で、数十年のうちにほとんど姿を消した。もとの人口の推計は数万から百万以上まで大きく割れているが、減り方が壊滅的だったことは疑いがない。大陸全体でも、100年のうちに地域によっては人口の9割が失われたという推計がある。

10月12日は、長くアメリカ大陸の「発見」の日として祝われてきた。だが、そこにはすでに数千万の人々が暮らしていた。近年は、発見ではなく「到達」や「出会い」と言い換えられ、アメリカの多くの州や都市では、同じ時期の祝日を先住民の日と呼ぶようにもなった。どこから見るかで、同じ日の意味が変わる。