テンジン・ノルゲイ
概要
チベットのカム地方の生まれ。クンブでシェルパ。1935年から7回エベレストへ。1953年、7回目。「どちらが先か」を言わなかった。「ヒラリーが先」と自伝で書いた。ダージリンで登山学校の校長。息子ジャムリンも登った。
関わったできごと(1)
エベレスト初登頂AD1953年5月29日 · 登った本文
テンジン・ノルゲイは、1914年に生まれた。正確な日付も場所もはっきりしない。本人は晩年、チベットのカルタ谷の生まれだと語ったとされ、ネパールのクンブ地方のターメで生まれたとする記録もある。子どもの頃の名はナムギャル・ワンディで、のちにロンブク僧院のラマの勧めでテンジン・ノルゲイ(「富める幸運な宗教の守り手」の意味)と改めたという。家はヤクを飼い、子どもの多い貧しい家だった。

10代でクンブに移り、さらに1930年代の初め、インドのダージリンに出た。当時のダージリンは、ヒマラヤへ向かうイギリスの登山隊が、荷を運ぶ人々を雇う町だった。テンジンもそこで仕事を探した。
1935年、20歳ほどのテンジンは、エリック・シプトンが率いるイギリスのエベレスト偵察隊に、荷運びとして雇われた。これが最初のエベレストである。チベット側からの1936年、1938年の遠征にも加わり、荷を担いで高所まで登った。1938年には高所での働きが認められ、ヒマラヤ・クラブが優れた荷運びに贈る「タイガー」の称号を受けている。1947年には、カナダ人アール・デンマンの無許可の登山に付き合い、チベットに密かに入ったが、途中で引き返した。

1950年代に入ると、ネパールが外国人に門を開き、南側からの道が開けた。1952年、スイスの遠征隊に、登頂を狙う隊員として加わった。テンジンはレイモン・ランベールと二人で南東稜を登り、標高8595メートル前後に達した。当時の最高到達点だった。同じ年の秋にもスイス隊で挑んだが、寒さと強風に阻まれた。
1953年、ジョン・ハント率いるイギリス隊に、シェルパたちを束ねるサーダーとして、また登頂の候補の一人として参加した。7回目のエベレストだった。5月26日、まずイギリス人隊員のボーディロンとエヴァンズが頂上をめざしたが、南峰で力尽きて引き返した。2番手のテンジンとエドモンド・ヒラリーは、仲間に荷を上げてもらって標高8500メートル近くの最終キャンプで一夜を過ごした。それ以前、遠征の途中では、氷の割れ目に落ちかけたヒラリーを、とっさにピッケルとロープで確保して救っている。5月29日、二人は南東稜の最後の岩場を越え、午前11時半ごろ世界最高峰の頂に立った(エベレスト初登頂)。テンジンは頂上に菓子などを埋めて山の神に捧げ、ヒラリーは国連・英国・ネパール・インドの旗を掲げたテンジンの写真を撮った。
下山すると、どちらが先に頂を踏んだかが騒ぎになった。ネパールでもインドでも、自国の英雄が先だと信じたい人々が二人を問い詰めた。二人は長いあいだ「一緒に着いた」とだけ答えた。テンジンは1955年に出た自伝で初めて、ヒラリーが数歩先を歩いていたと明かした。ネパール人かインド人かと問われても、どちらとも言わなかった。
登頂のあと、テンジンはイギリスからジョージ勲章を贈られた。1954年、ダージリンにジャワハルラール・ネルーの後押しでヒマラヤ登山学校が開かれると、その野外訓練の責任者となり、20年あまり若い登山家を育てた。読み書きはほとんどできなかったが、何か国語も話した。
最初の妻ダワ・プティとは若くして死別し、その後二度結婚した。1986年5月9日、ダージリンで脳出血のため死んだ。71歳前後である。遺体は登山学校の敷地で火葬された。
息子のジャムリン・ノルゲイは、1996年、父の登頂の道をたどってエベレストに登った。ネパールのルクラにある小さな空港は、2008年、テンジン・ヒラリー空港と名付けられた。荷を担ぐ一人の雇われ人として始まったテンジンの山の人生は、シェルパという名を、世界の山岳界の誰もが知る言葉にした。