できごと

クックの太平洋航海

Voyages of James Cook
1768年 – 1779年
期間を持つできごと重要度 4
大英帝国スペイン帝国ヌエバ・エスパーニャ副王領ShoshoniUteNorthern PaiuteコマンチアラパホークロウKiowaTetonBlackfootSouthern PaiutePawneeシャイアンネズパース1768年ハワイ(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1768年の版図を描いています(16勢力)。

概要

三度の航海で太平洋の地図がほぼ完成した。同時に、この海域が列強の関心の的になる。

場所

ハワイ位置は特定されていない(誤差 ±100km)
19.90°N -155.58°E · アメリカ合衆国・ハワイ州

関わった人(2)

ジョゼフ・バンクスAD1743年2月24日–AD1820年6月19日 · 同乗した博物学者ジェームズ・クックAD1728年11月7日–AD1779年2月14日 · 当人

本文

18世紀の半ばまで、ヨーロッパの地図の太平洋は、空白と推測で埋まっていた。南半球には、北半球の陸地と釣り合いをとる巨大な「南方大陸」があるはずだと信じられていた。イギリスの海軍士官ジェームズ・クックは、1768年から1779年までの三度の航海で、その空白の大半を測って埋めた。

一度目の航海の表向きの目的は、天文観測だった。1769年6月、金星が太陽の前を横切る。地球上の離れた地点からその時刻を正確に測れば、地球と太陽の距離が計算できる。王立協会の求めで、海軍は石炭運搬船を改装したエンデバー号をタヒチへ送った。船には、裕福な若い博物学者ジョゼフ・バンクスが自費で助手や画家を連れて乗り込んだ。

ジェームズ・クック船長の肖像
ジェームズ・クック船長の肖像Wikimedia Commons Nathaniel Dance-Holland · Public domain

タヒチでの観測を終えると、クックは封をされていた海軍の第二の指示を開いた。南方大陸を探せ、という命令である。彼はタヒチ人の航海者トゥパイアを乗せて南西へ向かい、ニュージーランドに着いた。6か月かけてその周りを一周し、北と南の二つの島からなることを確かめて海図にした。トゥパイアの言葉がマオリにも通じたことは、ポリネシアの人々が同じ祖先から広がったことを示す手がかりになった(アオテアロアへの到達)。

1770年4月、エンデバー号はオーストラリアの東岸に着いた。上陸した湾は、バンクスたちが見たこともない植物を大量に集めたことから、のちにボタニー湾と呼ばれる。北上する途中で大堡礁の珊瑚に乗り上げ、沈みかけた船を岸に引き上げて7週間かけて直した。帰路に寄ったバタヴィア(ジャカルタ)では、マラリアや赤痢で多くの乗組員が死に、トゥパイアもそこで死んだ。

クックらの測量に基づく1775年のニューファンドランド海図
クックらの測量に基づく1775年のニューファンドランド海図Wikimedia Commons Michael Lane and James Cook · Public domain

二度目の航海(1772〜75年)は、南方大陸の有無を決着させるためのものだった。クックは1773年1月、記録に残るかぎり初めて南極圏を越えた。のちには南緯71度まで達したが、氷に阻まれて引き返した。温暖な地域に人の住める大陸はない、と結論した。この航海では、ジョン・ハリソンの設計をもとに作られた精密な時計を積み、経度を正確に求めることに成功している。

クックは壊血病の対策でも知られる。酢漬けのキャベツ(ザワークラウト)や麦芽汁を積み、寄港地ごとに新鮮な野菜を手に入れ、船内を清潔に保った。二度目の航海では3年以上の航海で壊血病の死者をほとんど出さなかった。何が効いたのかは当時まだ分かっておらず、実際に効いたのは新鮮な食べ物だったと考えられている。

三度目の航海(1776〜79年)の目的は、北米大陸の北を抜けて大西洋と太平洋を結ぶ北西航路を探すことだった。1778年1月、北へ向かう途中で、ヨーロッパの船としては初めて記録に残る形でハワイ諸島に着いた(ハワイへの到達)。北米の西岸を北上してベーリング海峡を越えたが、氷の壁に阻まれ、冬を越すためにハワイへ戻った。この航海の航海長は、のちにバウンティ号の艦長になるウィリアム・ブライである(バウンティ号の反乱)。

ハワイへの到達に関わる図版:Na mokupuni o Hawaii nei LOC 98680907
ハワイへの到達Wikimedia Commons Kalama, Simona P.; Lahainaluna Seminary · Public domain

1779年1月、クックはハワイ島のケアラケクア湾に入り、大勢の島民に迎えられた。いったん出航したが、マストが折れて2月に湾へ戻ると、空気が変わっていた。ボートが盗まれ、クックはそれを取り返すために島の首長を船へ連れて行こうとした。浜辺で島民ともみ合いになり、2月14日、クックは殺された。クックがハワイの神ロノと見なされていたという説があり、その当否をめぐっては人類学者の間で激しい論争が続いている。

三度の航海で、太平洋の島々と海岸線の輪郭は、ほぼ地図に描かれた。ニュージーランドやオーストラリア東岸の海図は、長く使われ続けた。だが、地図に載ることは、外の世界に見つかることでもあった。バンクスの勧めで、1788年にはオーストラリアに流刑囚の植民地が置かれる(第一船団のボタニー湾到着)。捕鯨船、商人、宣教師が島々に押し寄せ、病気と武器が入り、ハワイでは王国の統一に西洋の銃が使われた(ハワイ王国の統一)。クックの航海は、太平洋の人々にとって長い変化の始まりになった。

出典(1)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第15章 科学と帝国の融合

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