人物

ジョン・ハニング・スピーク

John Hanning Speke
AD1827年5月4日 – AD1864年9月15日(享年37)
イギリス重要度 3

概要

インド軍。バートンと二度アフリカへ。1858年、ヴィクトリア湖。「ナイルの源」。1862年、リポン滝。バートンと争った。1864年9月15日、バース。討論の前日、狩りで猟銃が暴発した。「正しかった」と、後に分かった。

関わったできごと(1)

バートンとスピークのタンガニーカ湖AD1858年2月13日 · 目が見えなかった

本文

ジョン・ハニング・スピークは、1827年5月4日、イングランド南西部の地主の家に生まれた。勉強は好きではなく、野山で鳥や獣を追う少年だった。17歳でインドに渡り、東インド会社のベンガルの歩兵隊の士官になって、シク王国との戦争に加わった。休暇のたびに、彼はヒマラヤの山々やチベットの高原に分け入って狩りをし、獣や鳥の標本を集めた。いつか故郷に自分の博物館を作りたいと考えていた。さらにアフリカの珍しい動物を集めたいという願いが、彼をアフリカへ向かわせた。

ジョン・ハニング・スピーク
ジョン・ハニング・スピークWikimedia Commons S. Hollyer; Southwell Brothers · Public domain

1854年、アラビア半島の港町アデンで、スピークは軍人で探検家のリチャード・バートン(リチャード・バートン)に出会い、ソマリランドの内陸を探る遠征に加わった。1855年4月、隊は港町ベルベラの近くで夜にソマリの人々の襲撃を受け、仲間の一人が殺され、バートンは槍で頬を貫かれた。スピークは捕らえられて槍で11か所を刺されたが、隙を見て逃げ出し、命拾いした。その後、彼はクリミア戦争に従軍した。

当時、ヨーロッパの地理学の最大の謎の一つが、ナイル川の源だった。ナイルは砂漠を貫いて北へ流れているが、その水がアフリカの奥のどこから来るのかは、古代から誰も知らなかった。東アフリカの海岸の商人たちは、内陸に大きな湖があると伝えていた。1856年、イギリスの王立地理学会の後援で、バートンとスピークは、ザンジバルの対岸から内陸へ向かう遠征に出た。1858年2月、二人はアフリカの中央の細長い大きな湖、タンガニーカ湖に着いた(バートンとスピークのタンガニーカ湖)。だがスピークは目の病でほとんど何も見えず、さらに耳に入った甲虫をナイフで取り出そうとして、耳をひどく傷つけていた。

ジョン・ハニング・スピークの肖像
ジョン・ハニング・スピークの肖像Wikimedia Commons Southwell Brothers · Public domain

帰り道、バートンが病で動けないあいだ、スピークは、北にもう一つ大きな湖があるという話を確かめるため、少人数で北へ向かった。1858年8月3日、彼は、海のように果ての見えない湖の岸に立った。彼はこれを女王の名をとってヴィクトリア湖と名づけ、この湖こそナイルの源だと確信した。だが彼は湖の一部の岸を見ただけで、川が流れ出るところも確かめていなかった。バートンは、それは根拠の無い思いつきだと取り合わなかった。

二人の仲は、この時から決定的にこじれた。1859年5月、スピークはバートンより先にイギリスに戻り、王立地理学会の会長マーチソンに、自分がナイルの源を発見したと報告した。バートンは、二人そろって報告すると約束していたのに、スピークが抜け駆けしたと恨んだ。学会はスピークを支持し、次の遠征の隊長に彼を選んだ。

ブガンダの王太后にグラントを紹介するスピーク
ブガンダの王太后にグラントを紹介するスピークWikimedia Commons Josiah Wood Whymper / After Johann Baptist Zwecker · Public domain

1860年、スピークは、インド時代の友人ジェームズ・グラントとともに再びアフリカに向かった。二人はヴィクトリア湖の西を回り、カラグウェの王ルマニカのもとに迎えられ、さらに湖の北西のブガンダ王国に入った。ブガンダの王ムテサは、強大な権力を持つ若い王で、スピークは数か月にわたってその宮廷に滞在し、王と狩りをし、宮廷の暮らしを詳しく書き留めた。1862年7月28日、彼はヴィクトリア湖の北岸で、湖の水が滝となって流れ出し、一本の大河となって北へ下っていく場所を見つけた。彼はこれを学会の会長の名をとってリポン滝と名づけた。これがナイルの始まりだと、彼は確信した。ただ、このときも彼は川をずっと下ってたどることはできず、途中で陸路をとった。

1863年2月、スピークとグラントは、スーダンのゴンドコロで、ナイルを南からさかのぼってきたサミュエル・ベイカーの一行に出会った。スピークは、自分たちがたどれなかった西のもう一つの湖の話をベイカーに伝え、ベイカーはのちにその湖を確かめてアルバート湖と名づける。ハルツームに着いたスピークは、イギリスに電報を打った。ナイルの問題は解決した、と。

帰国したスピークは英雄として迎えられ、1863年には『ナイルの源の発見の記録』を出した。だが、湖を一周したわけでも、川をすべてたどったわけでもない彼の結論には、バートンをはじめ多くの批判が寄せられた。ブガンダの宮廷の女性たちの体の寸法を測った話など、彼の書きぶりにも反感を持つ人々がいた。1864年9月、イングランド西部の町バースで開かれる英国科学振興協会の会合で、スピークとバートンが公開の場で論争することになった。

討論の前日の1864年9月15日、スピークは、バースの近くの親族の領地で、いとこと狩りに出た。低い石垣を乗り越えようとしたとき、彼の猟銃が暴発し、弾は胸を貫いた。彼は数分後に亡くなった。37歳だった。検死の審問は事故と結論したが、論争を恐れて自ら命を絶ったのではないかという噂が立ち、いまも真相は分からない。翌日、会場でスピークの死を知らされたバートンは、ひどく動揺したと伝えられる。

スピークの説が正しかったことは、彼の死後に確かめられた。1875年、ヘンリー・モートン・スタンリー(ヘンリー・モートン・スタンリー)が船でヴィクトリア湖を一周し、湖が一つの大きな水域であり、リポン滝から流れ出る川がナイルの主な源の一つであることを確かめたのである。ナイルの源を探し続けたリヴィングストン(デイヴィッド・リヴィングストン)の調査も、この問題をめぐるものだった。ロンドンのケンジントン・ガーデンズには、ヴィクトリア湖とナイルの名を刻んだスピークの記念碑が建っている。そこにバートンの名は無い。その後の研究では、ヴィクトリア湖に注ぐ川のさらに上流、いまのルワンダやブルンジの山地まで、ナイルの源をたどる見方もある。リポン滝は、20世紀にダムの建設で水の下に沈んだ。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1827年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →