できごと

エルカーノの世界周航の完成

Elcano completes the circumnavigation
AD1522年9月6日
重要度 5
カルマル同盟ポルトガル帝国モスクワ大公国オスマン帝国西アフリカの穀作農民スペイン帝国ポーランド・リトアニア共和国ソンガイ帝国神聖ローマ帝国マリ帝国リトアニア大公国フランス王国エチオピア帝国Imperial Hungaryポーランド王国クリム・ハン国ザイヤーン朝カネム=ボルヌEnglandハンガリー王国アラゴン王国ハフス朝デンマーク=ノルウェーハウサ諸王国Teutonic Knightsワッタース朝Funjヴェネツィア共和国モシ諸王国ScottlandAD1522年9月6日セビリャ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1522年9月6日の版図を描いています(30勢力)。

概要

マゼランがマクタンで死んだあと、バスクの航海士が18人でビクトリア号をセビリアに戻した。5隻270人で出て、1隻18人。3年。積んだ丁子で航海の費用は出た。皇帝は地球儀の紋章を与えた。「最初に私を回った」。日付が一日ずれていることに、帰って気づいた。

場所

セビリャ
37.39°N -5.98°E · スペイン

関わった人(2)

エルカーノAD1476年–AD1526年8月4日 · 完成させたマゼランAD1480年頃–AD1521年4月27日 · 途中で死んだ

本文

1522年9月6日、ぼろぼろになった一隻の帆船が、スペイン南部のグアダルキビル川の河口、サンルーカル・デ・バラメダに入ってきた。船の名はビクトリア号。乗っていたのは18人のヨーロッパ人で、船長はバスク出身の航海士エルカーノである。3年前に同じ港から5隻で出た船団の、ただ一隻の生き残りだった。人類が初めて地球を一周した航海は、こうして終わった。

船団を率いて出発したのはポルトガル人のマゼランである。目的は世界一周ではなく、香辛料の産地モルッカ諸島へ西回りで行くことだった。1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルは世界を東西に分け合っていたが、地球の裏側のどこに境目が来るのかははっきりしなかった。マゼランは、モルッカはスペインの側にあると主張し、コロンブスの到達以来スペインが手にしてきた新大陸の南をぐるりと回って、そこへ行けると説いた。若い国王カルロス1世、のちの皇帝カール5世がこれを支援した。

トルデシリャス条約に関わる図版:Treaty of Tordesillas
トルデシリャス条約Wikimedia Commons Original: Biblioteca Nacional de Lisboa Photo: User:Joserebelo · Public domain

1519年9月20日、トリニダード、サン・アントニオ、コンセプシオン、ビクトリア、サンティアゴの5隻、およそ240人あまりがサンルーカルを出た。乗組員の数は記録によって違い、270人とするものもある。エルカーノは当初、コンセプシオン号の航海士だった。

1520年4月、南米の南、サン・フリアン湾で冬を越していたとき、スペイン人の船長たちがポルトガル人の司令官に反旗を翻した。エルカーノも反乱の側に加わった。マゼランは素早く反撃して首謀者を処刑し、一人は荒野に置き去りにしたが、エルカーノら多くの者は、人手が要ることもあって赦された。5月にはサンティアゴ号が偵察中に難破した。10月、船団は南米の南端の海峡に入り、迷路のような水路を1か月以上かけて抜けた。その途中、サン・アントニオ号が勝手に引き返してスペインへ逃げ帰った。

フアン・セバスティアン・エルカーノの肖像(19世紀)
フアン・セバスティアン・エルカーノの肖像(19世紀)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

11月28日、船団は海峡を出て、まだ誰も渡ったことのない大洋に出た。マゼランは穏やかなその海を「太平洋」と名づけた。だが海は想像をはるかに超えて広かった。陸を見ないまま3か月あまりが過ぎ、食べ物は尽きた。乗り組んでいたイタリア人ピガフェッタの記録によれば、ビスケットは虫だらけの粉になり、ネズミの小便の臭いがした。人びとは帆桁に巻いた牛の革を海水に浸して柔らかくして食べ、ネズミ一匹が半ドゥカートで売り買いされた。壊血病で歯ぐきが腫れ、何人もが死んだ。

1521年3月、船団はグアム島に着き、続いてフィリピンの島々に入った。セブ島の首長を改宗させたマゼランは、従わない隣のマクタン島の首長ラプラプを討とうとして、4月27日、浅瀬での戦いで殺された。数日後、セブの首長が開いた宴で、招かれた士官ら20人以上が殺された。人手が足りなくなった一行は、傷みのひどいコンセプシオン号を焼き、残る2隻で島々をさまよった。

サンルーカル・デ・バラメーダにある生還者を記したレリーフ
サンルーカル・デ・バラメーダにある生還者を記したレリーフWikimedia Commons Antonio M. Romero Dorado · Public domain

11月、彼らはついにモルッカ諸島のティドレ島に着き、丁子(クローブ)を買い込んだ。ところがトリニダード号は浸水がひどく、修理のために残ることになった。この船はのちに太平洋を東へ戻ろうとして失敗し、ポルトガルに捕えられている。12月21日、エルカーノを船長とするビクトリア号は、ヨーロッパ人47人と島々の人13人を乗せて、西へ向かって出た。

帰りの道はポルトガルの勢力圏の真ん中だった。見つかれば捕えられるため、エルカーノはインドの港にも寄らず、インド洋を南西へ大きく回り込んだ。1522年5月、嵐の中で喜望峰を回り(喜望峰の回航)、大西洋を北へ上った。食料は尽き、壊血病で人が次々に死んだ。7月、やむなくポルトガル領のカーボベルデ諸島に寄ったとき、上陸した者たちは奇妙なことに気づいた。島ではその日を木曜日と言うのに、船の航海日誌では水曜日だったのである。ピガフェッタは日誌を毎日欠かさずつけていたので、自分たちの数え違いではないと書いている。西へ西へと地球を一周したため、太陽が昇るのを一度少なく数えていたのだった。地球を回れば日付が一日ずれることを、実際に体験した最初の人びとである。この寄港で、香辛料の出どころを怪しまれ、上陸していた13人が捕えられた。

エルカーノの近代の銅版画、1854年頃
エルカーノの近代の銅版画、1854年頃Wikimedia Commons Original:Imprenta de Luis Tasso Photo: Fondo Antiguo de la Biblioteca de la Universidad de Sevilla from Sevilla, España · Public domain

ビクトリア号は残りの者で逃げ出し、9月6日にサンルーカルへ帰り着いた。出発から3年近くが過ぎていた。9月8日、セビリアに着いた生存者たちは、海で誓ったとおり、裸足で、手に蝋燭を持って教会へ参った。

持ち帰った丁子は26トンほどあったとされ、その売上げで、失われた4隻を含む遠征の費用をほぼまかなえたという。皇帝カール5世はエルカーノを宮廷に招き、年500ドゥカートの年金と、地球儀を描いた紋章を与えた。地球儀には「汝は初めて我を巡れり」というラテン語が添えられていた。

エルカーノの生家とされる家(ゲタリア)。銘板があるが実際は疑わしい
エルカーノの生家とされる家(ゲタリア)。銘板があるが実際は疑わしいWikimedia Commons Zarateman · CC0

エルカーノの栄光は長くは続かなかった。彼は1525年、再びモルッカを目指す遠征に加わり、翌1526年、太平洋の上で病に倒れて死んだ。その後スペインは1529年、モルッカの権利を金と引き換えにポルトガルへ譲り、1560年代からはフィリピンを足がかりにアジアへ乗り出した。のちのマニラ・ガレオン貿易の太平洋航路は、この航海が切り開いた道の先にある。

世界一周はしばしば「マゼランの世界周航」と呼ばれ、エルカーノの名は長く陰に隠れた。マゼランはフィリピンで死に、地球を回り切ってはいない。若いころポルトガル人としてマラッカまで東回りで行っていたので、二つの航海を合わせれば一周に近い、とする言い方もあるが、一つの航海で地球を回り切ったのはエルカーノとビクトリア号の18人だった。エルカーノの故郷、バスク地方の港町ゲタリアには彼の像が立ち、スペイン海軍の練習帆船は今も「フアン・セバスティアン・デ・エルカーノ」の名で世界を巡っている。

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