できごと

ハドソン湾の発見と遭難

Hudson's last voyage
AD1611年6月
重要度 3
スペイン帝国T'atsaot'ineアサバスカ諸族亜寒帯林の狩猟採集民大英帝国クリーObiwaNaskapi InnuShoshoniAssiniboinMontagnais InnuUteNorthern PaiuteIllinnois𐓏𐒰𐓓𐒰𐓓𐒷 𐒼𐓂𐓊𐒻 𐓆𐒻𐒿𐒷 𐓀𐒰^𐓓𐒰^(Osage)コマンチアラパホークロウMescaleroShawneeSanteeKiowaTetonMi'kma'kiBlackfootErieCatawbaベオスックカドーイロコイ連邦Southern PaiutePawneeWichitaYankontaiMuskogeePotawatomiChicaksawYanktonAbnakiChiricahuaAaniiihNavahoIowaQuapawChoctawTonkawaシャイアンFlatheadSusquehannaCherokeeHitchitiDelawareネズパースMissouriTuteloMiamiAD1611年6月ハドソン湾
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1611年6月の版図を描いています(56勢力)。

概要

北西航路を探して湾に入り、氷に閉じ込められて越冬した。春、船員が反乱して、ハドソンと息子と病人7人を小舟に乗せて置き去りにした。二度と見つからなかった。湾も川も海峡も、その名になった。

場所

ハドソン湾
58.00°N -86.00°E · カナダ

関わった人(1)

ヘンリー・ハドソンAD1565年頃–AD1611年頃 · 船長

本文

17世紀のはじめ、ヨーロッパの国々は、アジアの香辛料と絹の富へ通じる近道を探していた。アフリカの南を回る航路はポルトガルとオランダが、南アメリカの南を回る航路はスペインが押さえていた。イングランドの商人たちが望みをかけたのは、北アメリカの北を抜けて太平洋へ出る「北西航路」だった。イングランドの航海者ヘンリー・ハドソンは、すでに3度、北の航路を探す航海をしていた。1607年と1608年にはイングランドの会社のために北極海を、1609年にはオランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)に雇われて、北アメリカの東岸を探り、のちに彼の名で呼ばれるハドソン川をさかのぼった。

4度目の航海は、イングランドの有力な商人や貴族の出資で行われた。1610年4月17日、ハドソンは55トンの小さな船ディスカヴァリー号に20人あまりを乗せて、ロンドンを出た。乗組員には、まだ十代の息子ジョン、前回の航海で航海士を務めたロバート・ジュエット、そしてヘンリー・グリーンという若者がいた。グリーンは素行が悪く家族に見放された男で、ハドソンが自分の家に住まわせ、船に連れてきたのだった。航海のあいだの出来事は、生き残った乗組員アバクック・プリケットの手記などによって伝わっている。

1885年出版の「Cyclopaedia of Universal History」にヘンリー・ハドソンの肖像画として掲載された絵(本人かどうかは不明)
1885年出版の「Cyclopaedia of Universal History」にヘンリー・ハドソンの肖像画として掲載された絵(本人かどうかは不明)Wikimedia Commons Public domain

船はアイスランド、グリーンランドの南を経て、北アメリカの北東へ向かった。6月、ラブラドルの北で、氷の浮かぶ狭い海峡に入った。のちにハドソン海峡と呼ばれる海峡である。流氷に閉じ込められそうになりながら西へ進み、8月の初め、海峡を抜けると、目の前に広い海が開けた。ハドソンは、ついに太平洋へ通じる海に出たと信じたらしい。船はこの海の東の岸に沿って南へ下った。だが行き着いたのは、南の奥の行き止まりの湾、いまのジェームズ湾だった。ハドソンは出口を探して湾の中を何週間もさまよい、その間に船の中の空気は険しくなっていった。航海士ジュエットと対立したハドソンは、彼を航海士の役から外した。

11月、船は湾の南の奥で氷に閉じ込められ、そのまま冬を越すことになった。食糧は乏しく、乗組員は鳥を撃ち、千羽を超えるライチョウを獲ってしのいだと伝えられる。春が近づくと魚も獲れたが、壊血病と凍傷に苦しむ者が増えた。冬のあいだに砲手が死ぬと、ハドソンはその遺品の上着を、慣例のように競売にかけず、お気に入りのグリーンに与えた。ほかの乗組員はこれを恨み、ハドソンが特定の者だけを優遇しているという不満が募った。

ハドソンの北米探検300周年を記念して1909年に建造されたハルフェ・マーン号のレプリカ
ハドソンの北米探検300周年を記念して1909年に建造されたハルフェ・マーン号のレプリカWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1611年6月、ようやく氷が緩み、船は動けるようになった。帰国を前に、ハドソンは残った食糧を分け、一人に1ポンドほどのチーズを配った。乗組員の間には、船長が自分のためにパンやチーズを隠しているという噂が広がった。6月22日ごろの夜明け、グリーンとウィリアム・ウィルソンらが反乱を起こし、ジュエットもそれに加わった。ハドソンは船室から出たところを捕らえられ、縛られた。反乱者たちは、ハドソンと息子のジョン、病気の者や船長に忠実な者を、船に積んでいた小舟に移した。一丁の鉄砲と少しの火薬、鉄の鍋、わずかな穀物が与えられた。大工のフィリップ・スタッフは、船に残ることを許されたが、船長と運命をともにすると言って自ら小舟に乗ったと伝えられる。小舟の9人をあとに、ディスカヴァリー号は帆を上げた。小舟はしばらく後を追ったが、やがて見えなくなった。

反乱者たちの帰り道も無事ではなかった。食糧を求めてハドソン海峡の入り口の島に上陸したとき、イヌイットとの争いになり、グリーンやウィルソンら数人が殺された。ジュエットは帰りの航海の途中で飢えて死んだ。ロバート・バイロットの操船で、生き残った8人が1611年の秋にイングランドへ帰り着いた。首謀者とされた者たちは、みな死んでいた。生き残りのうち4人が1618年になって殺人の罪で裁かれたが、無罪となった。彼らが新しい海の道筋を知る貴重な証人だったことも、罰を免れた理由の一つだったと考える人がいる。実際、バイロットはその後も北西航路を探す航海に加わった。

ハドソンの4度目の航海の地図(1610年-1611年)
ハドソンの4度目の航海の地図(1610年-1611年)Wikimedia Commons Jeangagnon · Public domain

ハドソンと小舟の人々のその後は、何も分かっていない。1631年、ジェームズ湾を探ったトマス・ジェームズは、ある島で鉄の道具で切られたらしい杭を見つけ、ハドソンの一行が残したものかもしれないと記したが、それ以上の手がかりは無い。北西航路そのものは、その後も多くの探検家の命を奪い、フランクリン隊の遭難の悲劇を経て、ようやく20世紀のはじめに通り抜けられた(北西航路の初めての通過)。

ハドソンが命と引き換えに見つけた湾は、太平洋への道ではなかったが、別の富をもたらした。湾に注ぐ川の流域は、毛皮の獣の宝庫だった。1670年、イングランドの国王の特許状によって、湾の流域での交易を独占するハドソン湾会社が作られた。会社は北アメリカの広大な土地を支配し、のちにカナダの百貨店の会社となって、北アメリカで最も古い会社の一つとして続いたが、2025年に経営が破綻し、店を閉じた。湾も、海峡も、川も、いまも彼の名で呼ばれている。

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