ヴィトゥス・ベーリング
概要
デンマークのホーセンス。ロシア海軍。1725年、ピョートルの命でシベリアを横断してカムチャツカへ。3年かけて着いて、船を造って、海峡へ。1741年、アラスカ。帰りに島で。1991年、墓が見つかって、顔が復元された。太っていなかった。
関わったできごと(1)
ベーリングの海峡AD1728年 · 航海本文
ヴィトゥス・ベーリングは1681年、デンマークのユトランド半島東岸の港町ホーセンスに生まれた。家は裕福ではなく、ベーリングという姓は、母方の名家から取ったものである。若くして船乗りになり、オランダの船で東インドへの航海も経験したとされる。

1703年ごろ、ベーリングはロシアの海軍に入った。そのころロシアではピョートル1世が、海に出る国をつくろうとしていた。艦隊を一から育てるため、オランダやデンマーク、イギリスなどから経験のある船乗りを大勢雇い入れており、ベーリングもその一人だった。スウェーデンとの大北方戦争のさなかで、彼はアゾフ海やバルト海で軍務につき、少しずつ昇進していった。1713年には、ロシアに住むスウェーデン系の商人の娘アンナ・クリスティナと結婚している。
1724年の暮れ、死を目前にしたピョートル1世は、ベーリングを呼んで一つの探検を命じた。カムチャツカで船を造り、北へ航海して、アジアとアメリカが陸でつながっているかどうかを確かめよ、というものだった。ピョートルは翌年の初めに亡くなり、ベーリングは帝の遺命を負って都サンクトペテルブルクを発った。これが第一次カムチャツカ探検である。

都からカムチャツカまでは、シベリアを横断する何千キロもの道のりだった。一行はトボリスク、ヤクーツクを経て、川を船で、陸を馬や犬ぞりで進み、オホーツク海の岸にたどり着くまでに2年近くを費やした。船を造る資材も、鉄も帆布も、すべて運んでいかねばならなかった。カムチャツカ半島に渡って聖ガヴリイル号を造り、1728年7月、ようやく北へ船出した。
聖ガヴリイル号はアジアの東の端に沿って北上し、8月の半ば、北緯67度を越えたところで、岸がもう西へ退いていくのを見た。ベーリングは、アジアとアメリカは陸ではつながっていないと判断し、冬が来る前に引き返した(ベーリングの海峡)。この海峡は、のちに彼の名で呼ばれることになる。ただ、霧のために東の対岸、つまりアメリカ大陸は見えなかった。実はそれより80年前の1648年、コサックのデジニョフがこの海峡を船で通り抜けていたが、その報告はヤクーツクの役所に埋もれ、ベーリングは知らなかった。

1730年、ベーリングは都に戻った。だが、アメリカを見ずに帰ってきたことで、探検は中途半端だったという批判を受けた。ベーリングは再びの探検を申し出て、はるかに大きな計画が認められた。1733年に始まる第二次カムチャツカ探検、別名を大北方探検という。シベリアの北の海岸線を測り、日本への航路を探り、アメリカへ渡るという、いくつもの隊を束ねた大事業で、学者や水兵、職人、それを支える人々まで数千人がかかわった。ベーリングはその総指揮を任されたが、役人たちとの争いや物資の不足に苦しみ、準備だけで何年もかかった。
1741年6月、ベーリングは、カムチャツカに新しく開いた港ペトロパヴロフスクから、2隻の船で東へ向かった。自らは聖ピョートル号を指揮し、聖パーヴェル号は副官のチリコフが率いた。2隻はまもなく霧ではぐれ、それぞれに東へ進んだ。チリコフの船は7月半ばにアラスカの南東部の島々に達したが、水を汲みに上陸させたボートが2艘とも戻らなかった。ベーリングの船も同じころ、雪をかぶった巨大な山、聖イリヤ山を見た。北アメリカの北西岸を、ヨーロッパの船乗りが記録に残した最初の機会の一つである。
ベーリングの船に乗っていたドイツ人の博物学者シュテラーは、カヤック島への上陸を強く求めた。だが、ベーリングは帰りの季節を気にして、水を積むためのわずかな時間しか与えなかった。シュテラーは、10年の準備がわずか10時間の調査のためだった、と恨みを日記に書き残している。それでも彼は、その短い時間に鳥や植物を集め、アメリカの土を踏んだ記録を残した。
帰りの航海は苦難の連続だった。アリューシャン列島沿いの逆風と嵐に阻まれ、乗組員はつぎつぎに壊血病で倒れた。ベーリング自身も病み、船室から出られなくなった。11月、ようやく陸地が見えたとき、人々はカムチャツカに着いたと喜んだが、それは無人の島だった。船は嵐で浜に打ち上げられ、生き残った者たちは砂を掘った穴に流木と帆布で屋根をかけて冬を越した。
ベーリングは1741年12月、その島で亡くなった。60歳だった。シュテラーの記録によれば、彼は最期のころ、半ば砂に埋もれて横たわり、そのほうが暖かいと言って掘り出されるのを拒んだという。島は彼の名を取ってベーリング島と呼ばれ、まわりの島々とともにコマンドル諸島をなしている。生き残った46人は、壊れた船の材木で小さな船を造り直し、1742年8月にペトロパヴロフスクへ帰り着いた。
彼らが島から持ち帰ったラッコの毛皮は、ロシアの商人たちをアリューシャンとアラスカへ駆り立てた。毛皮を求める人々の東進は、やがてロシア領アメリカと呼ばれる植民地になり、1867年にアメリカ合衆国へ売られるまで続いた。シュテラーが島で記録した大きな海獣、のちにステラーカイギュウと呼ばれる生きものは、毛皮商人たちに食料として狩られ、記録からわずか30年ほどで絶滅した。
1778年、イギリスのジェームズ・クックは3度目の航海でこの海峡を通り(クックの太平洋航海)、先人をたたえてベーリング海峡と名づけた。1991年には、デンマークとソ連の合同調査団がベーリング島でベーリングの墓を見つけ、遺骨から顔を復元した。長く彼の肖像とされてきたのは、ふっくらとした顔の男の絵だったが、復元された顔はそれとは違い、がっしりとした体つきの男だった。今では、あの肖像は同名の親戚で詩人のヴィトゥス・ペーダーセン・ベーリングを描いたものと考えられている。遺骨は故郷デンマークには帰らず、調査ののち、ふたたび島に葬られた。デンマークの小さな港町に生まれた船乗りは、ロシアの東の果てで、物語「探検と発見」の歴史に名を残したのである。