ハワイ王国の統一

概要
西洋の武器を取り入れて諸島をまとめた。独立王国として各国に承認される。
場所
19.90°N -155.58°E · アメリカ合衆国・ハワイ州
関わった人(1)
カメハメハ1世AD1758年頃–AD1819年5月8日 · 当人本文
18世紀のハワイ諸島には、統一された国が無かった。ハワイ島、マウイ島、オアフ島、カウアイ島などに、それぞれ大首長(アリイ・ヌイ)がいて、互いに婚姻を結んでは戦っていた。社会は厳しいカプ(禁忌)の掟で律され、首長の影を踏むことすら罪になったとされる。
カメハメハ1世は1758年ごろ、ハワイ島の北のコハラで生まれた。生まれた夜に大きな星が空を流れたという伝承があり、ハレー彗星の年に当てる説がある。ハワイ島の大首長カラニオプウの甥として育ち、戦士として頭角を現した。1779年、ジェームズ・クックがハワイ島のケアラケクア湾に来て殺されたとき(クックの太平洋航海)、若いカメハメハはその場の近くにいた。

1782年にカラニオプウが死ぬと、その子が後を継ぎ、カメハメハには戦の神クカイリモクの像の守りが託された。後継をめぐる争いが起き、カメハメハはモクオハイの戦いで新しい首長を倒して、ハワイ島の一部を握る。島の残りを押さえるまでには、さらに10年近くかかった。
統一の戦いには、神託がついて回った。ハワイ島の西岸プウコホラに戦の神の大きな神殿を建てれば島を手にできる、とする予言があり、カメハメハは1791年にこれを完成させた。その奉献の場に招かれたライバルの首長ケオウアは、浜に上がったところで殺され、神殿に供えられた。これでハワイ島はカメハメハのものになった。

決め手の一つが、西洋から来た船と武器だった。毛皮交易の船が寄港するようになると、カメハメハは食料や物資と引き換えに大砲とマスケット銃を手に入れた。1790年には、ジョン・ヤングとアイザック・デイヴィスという二人のイギリス人船乗りを手元にとどめ、砲術と西洋の船の扱いを任せた。二人はそのまま首長の位を与えられ、生涯ハワイで暮らしている。
1795年、カメハメハは大船団を率いてマウイ島、モロカイ島を押さえ、オアフ島へ上陸した。ヌウアヌの谷で決戦となり、オアフの軍は谷の奥へ追い詰められて、断崖から多くが落ちて死んだと伝えられる。

残るはカウアイ島だった。1796年の遠征は嵐で船団が引き返し、1804年の遠征は兵の間に疫病が広がって取りやめになった。最後は戦わずに決着した。1810年、カウアイの王カウムアリイは、自分の島を治め続けることを条件に、カメハメハに従うことを受け入れた。諸島が一人の王のもとにまとまったのは、これが初めてだった。
カメハメハの名を今に伝える法がある。「割れた櫂の法」と呼ばれる掟で、老人も女性も子どもも、道ばたで安心して眠れなければならない、と定めた。若い頃、浜で漁民を襲おうとして岩の割れ目に足を取られ、櫂で頭を打たれた。のちにその漁民が引き出されたとき、カメハメハは罰するどころか自分の非を認め、この掟を出したと伝わる。この法はいまもハワイ州の憲法に書き込まれている。

統一の後、カメハメハは各島に総督を置き、白檀の交易を王の独占にして富を集めた。一方で古いカプの掟と神々の祭りは守り続けた。1819年に彼が死ぬと、後を継いだ息子と、寡婦カアフマヌがカプを廃止し、翌年にはアメリカから宣教師がやってくる。
カメハメハの妻のうち、最も強い力を持ったのはカアフマヌだった。王の死後、彼女は新しい王と並ぶ摂政の地位に就き、男女が同じ席で食事をしてはならないというカプを、王となったリホリホに公の宴で破らせた。統一された王国を古い掟から切り離したのは、王の後を生きた彼女だった。

王国が独立国として欧米の国々に正式に認められるのは、息子のカメハメハ3世の代、1840年代のことになる(ハワイ王国)。だが砂糖の農園を営む外国人の力が強まり、1893年には女王リリウオカラニが退けられて王国は倒された(ハワイ王国の転覆)。毎年6月11日、ハワイではカメハメハの日を祝い、像に長い花の首飾りがかけられる。