人物

白瀬矗

Shirase Nobu
AD1861年7月20日 – AD1946年9月4日(享年85)
日本重要度 3

概要

秋田の寺の子。11歳で北極を志した。陸軍。千島で越冬して仲間が死んだ。50歳で南極。開南丸。ロス棚氷。「大和雪原」。帰って講演で借金を返し、貧しく85歳まで生きた。白瀬の名は、南極の氷河と、日本の観測船に。

所属

日本

関わったできごと(1)

白瀬矗の南極探検AD1912年1月 · 率いた

本文

白瀬矗(しらせ・のぶ)は、日本人として初めて南極大陸の探検に挑んだ陸軍の軍人である。南極点には届かなかったが、小さな木造船で南極の氷の上に立ち、帰国後は探検の借金を返すために20年以上講演を続けて、貧しいまま85歳で世を去った。

白瀬矗の肖像
白瀬矗の肖像Wikimedia Commons published by 潮出版社 · Public domain

1861年7月20日、出羽国の金浦(いまの秋田県にかほ市)にある浄蓮寺の住職の長男に生まれた。幼い名は知教(ちきょう)という。11歳のころ、寺子屋の師の佐々木節斎から、北極の海で消息を絶ったイギリスのフランクリン隊の話(フランクリン隊の遭難)を聞き、自分は北極へ行くと心に決めたと、のちに回想している。寒さに耐える体を作るために、酒を飲まない、たばこを吸わない、茶を飲まない、湯を飲まない、寒くても火にあたらない、という五つの戒めを自分に課し、生涯これを守ったという。寺を継ぐことは選ばず、陸軍の下士官を養成する教導団に入って軍人になった。

北へ近づく最初の機会は、1893年に来た。海軍大尉の郡司成忠が、千島列島の開拓と防備のために民間の団体を作って北の島々へ渡ったとき、白瀬は陸軍から加わり、千島の北端の占守島で越冬した。島の冬は苛酷で、壊血病などで仲間が次々に倒れ、白瀬自身も生き延びるのがやっとだった。北極を目指すための実地の修業のつもりだったが、得たのは極地の厳しさの記憶だった。その後、日露戦争にも従軍している。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

1909年、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達したと発表した(ピアリーの北極点)。目標を失った白瀬は、ただちに南極へ向きを変えた。同じころ、イギリスのロバート・スコットも南極点を目指して準備を進めていた。1910年、白瀬は南極探検の計画を発表し、帝国議会に援助を求めた。衆議院は援助の建議を可決したが、政府は資金を出さなかった。代わりに大隈重信が後援会の会長を引き受け、新聞の呼びかけで全国から寄付が集まった。

1910年11月29日、東京の芝浦から、204トンの木造の帆船「開南丸」が出航した。船長は野村直吉。見送りに集まった人は5万人ともいわれる。船には、そりを引く樺太犬と、その犬を扱う樺太アイヌの山辺安之助と花守信吉もいた。しかし南極の海に着いたのは翌1911年3月で、もう冬が迫っていた。氷に阻まれて上陸できず、船はオーストラリアのシドニーへ引き返した。日本の新聞には探検を嘲る記事も出た。シドニーでも当初は怪しまれたが、地質学者のエッジワース・デイヴィッド教授が一行を支え、彼らは郊外で冬を越して船を整えた。

南極大陸の衛星写真
南極大陸の衛星写真Wikimedia Commons Dave Pape · Public domain

1911年11月、開南丸は再び南へ向かった。年明けの1912年1月16日、ロス棚氷の鯨湾に着くと、そこにはノルウェーのロアール・アムンセンが乗ってきたフラム号(ナンセンのフラム号)が停泊していた。アムンセン隊はすでに前年12月14日に南極点に到達しており(アムンセンの南極点)、帰りを待つ船だった。両隊の隊員は互いの船を訪ねたが、言葉はあまり通じなかったという。

白瀬は、自分を含む5人の突進隊を組み、犬ぞりで棚氷の上を南へ進んだ。1912年1月28日、南緯80度5分、西経156度37分に達したところで、食料と日数の限界から引き返すことを決めた。白瀬はそこに日章旗を立て、見渡すかぎりの雪原を「大和雪原」と名づけた。南極点まではまだ1000キロメートル以上あった。シドニーで冬を越したときには、すでに点への到達は無理だと分かっていたとされる。それでも彼は、行けるところまで行くことを選んだ。この探検の経過は白瀬矗の南極探検に詳しい。なお、この「雪原」は後の調査で陸地ではなく海に浮かぶ棚氷の上だったことが分かっている。

千島列島の日露間の分割を示す地図(年代別)
千島列島の日露間の分割を示す地図(年代別)Wikimedia Commons Hardscarf · Public domain

1912年6月20日、開南丸は芝浦に戻り、ふたたび大勢の人が迎えた。しかし探検には寄付で賄いきれない費用がかかっており、白瀬の手には4万円ともいわれる借金が残った。後援会の会計にも問題があったとされる。白瀬は家財を売り、南極の記録映画を携えて全国の学校や町を回り、講演を重ねて少しずつ返していった。旅は日本の各地から満州にまで及び、借金を返し終えたのは20年以上たってからだったという。

晩年は家族とともに各地を転々とし、1946年9月4日、愛知県挙母町(いまの豊田市)で、間借りしていた家の一室で死んだ。85歳だった。敗戦の翌年で、その死はほとんど報じられなかった。

日本南極地域観測隊の砕氷船「しらせ」(2009年)
日本南極地域観測隊の砕氷船「しらせ」(2009年)Wikimedia Commons toshinori baba · Public domain

白瀬の名は、日本が国として南極観測を始めてから、改めて掘り起こされた。東南極の大きな氷河は「白瀬氷河」と名づけられ、1982年に就役した日本の南極観測船は「しらせ」と命名された。いまの2代目の観測船にもその名が引き継がれている。故郷のにかほ市には1990年に白瀬南極探検隊記念館が開かれ、開南丸の模型や遺品が展示されている。南極点への競争に敗れた探検家だが、日本で南極を最初に目指した人として、その名は観測の歴史の起点に置かれている。

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