喜望峰の回航
概要
ディアスがアフリカ南端を回った。インドへの海路が開けると分かり、10年後にダ・ガマが続く。
場所
-34.36°N 18.47°E · 南アフリカ
関わった人(2)
バルトロメウ・ディアスAD1450年頃–AD1500年5月29日 · 船長エンリケ航海王子AD1394年3月4日–AD1460年11月13日 · その道を開いた本文
15世紀のポルトガルは、ヨーロッパの西の端にある小さな王国だった。地中海の交易はイタリアの都市が握り、東方の胡椒や香辛料は、イスラーム圏の商人とヴェネツィアの手を経て、高い値段でしか手に入らなかった。ポルトガルが目を向けたのは、目の前に広がる大西洋と、その先のアフリカの海岸である。
その道を開いたのが、エンリケ航海王子だった。王子は自らはほとんど航海に出なかったが、船乗りと地図作りを集め、毎年のように船をアフリカの西岸へ送り出した。1434年のボハドル岬の突破で、それまで世界の果てと恐れられていた岬の先へ船が進むようになる。王子が1460年に亡くなった後も南下は続き、ポルトガルの船は金と象牙と奴隷を積んで戻った。1482年にはギニア湾の岸にエルミナ城の建設が築かれた。

国王ジョアン2世の代になると、目標ははっきりしていた。アフリカの南の端を回って、インドへ海で行くことである。ただし、アフリカがどこまで南へ延びているのか、本当に回り込めるのか、誰も知らなかった。古代の地理学者プトレマイオスの地図では、インド洋はアフリカと東の陸地に囲まれた閉じた海として描かれていた。1480年代半ばには航海者ディオゴ・カンが、いまのアンゴラからナミビアの海岸まで南下したが、海岸はまだ南へ続いていた。
1487年8月、バルトロメウ・ディアスはカラヴェル船2隻と補給船1隻を率いてリスボンを出た。同じ年、王はペロ・ダ・コヴィリャンらを陸路で東へ送り出し、インドとアフリカ東岸の様子を探らせている。海と陸の両方から、インドへの道を確かめようとしていた。

ディアスの船団はアフリカの西岸を南へ下り、いまのナミビアの辺りで補給船を残して、さらに南へ進んだ。やがて強い風に押され、船は陸地の見えない沖を、10日以上にわたって南へ流された。風が収まると、ディアスは東へ舵を取ったが、どこまで行っても陸地は見えない。そこで北へ向かうと、1488年2月、ようやく海岸にたどり着いた。いまの南アフリカのモッセル湾である。海岸は東西に延びていた。嵐に流されているあいだに、気づかないままアフリカの南の端を回り込んでいたことが、ここで初めて分かった。
ディアスはさらに東へ進もうとしたが、乗組員たちは疲れ果て、食糧も心細くなっていた。船長たちと話し合った末、海岸がしだいに北東へ向きを変えるのを確かめた辺りで、引き返すことになった。ディアスはその地点に、王の紋章を刻んだ石の柱(パドラン)を立てた。帰りの航海で、船団は行きに見ずに通り過ぎた大きな岬を目にした。

ポルトガルの年代記作者ジョアン・デ・バロスによれば、ディアスはこの岬を、嵐に苦しめられたことから「嵐の岬」と名付け、王ジョアン2世がこれを「喜望峰」、良い希望の岬と改めさせたという。インドへの道が開けるという希望のためである。ただ、ディアス自身が最初から喜望峰と呼んだとする記録もあり、どちらが本当かははっきりしない。
1488年12月、ディアスはリスボンに戻った。ジェノヴァ出身の航海者コロンブスは、1480年代の半ばにポルトガル王へ西回りでアジアへ行く計画を売り込んで退けられ、スペインへ移っていた。1488年に一度リスボンへ戻り、ディアスの帰国を目にしたとも言われる。東回りの道が見えたポルトガルは、西回りの計画にもう関心を示さなかった。コロンブスはスペインの支援を得て、1492年にコロンブスの到達を果たす。二つの国の進出は、1494年のトルデシリャス条約で世界を東西に分け合う取り決めにつながっていく。

ディアスの航海の後、インドへの船がすぐに出たわけではなかった。王位の継承の問題や、陸路の探索の結果を待つことなどで、10年近くが過ぎた。1497年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がリスボンを出る。その船の建造を監督したのはディアスで、ディアスは途中のヴェルデ岬諸島まで同行し、そこから別の任務で西アフリカのエルミナへ向かった。ダ・ガマは喜望峰を回り、ディアスが引き返した地点を越えて、1498年にインドの西岸に着いた。
1500年、ディアスはペドロ・アルヴァレス・カブラルの艦隊に船長の一人として加わり、ふたたびインドを目指した。艦隊は大西洋を大きく西へ回ってブラジルに着いた後、喜望峰へ向かう途中で激しい嵐に遭い、ディアスの船を含む数隻が沈んだ。自らが回り、名を伝えた岬の沖で、ディアスは海に消えた。