できごと

ロイズと海上保険

Lloyd's Coffee House
AD1688年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国モロッコポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインEngland and IrelandScottalndヴェネツィア共和国NaplesルクセンブルクFinnmarkプロイセンAD1688年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1688年の版図を描いています(22勢力)。

概要

テムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

船を出せば、戻らないことがある。嵐、座礁、海賊、敵国の私掠船による拿捕、船火事。十七世紀の遠洋の航海では、航路によっては一割を超える船が失われたともいわれる。一人の商人が船と積荷の値をすべて背負えば、一度の難破で破産する。危険をどう分けるかは、海の商売が始まって以来の課題だった。

古くからの答えはいくつかあった。一つは冒険貸借で、船を担保に金を借り、無事に着けば高い利息を付けて返し、沈めば返さなくてよい。融資と保険が一体になった仕組みで、ハンムラビ法典にもこれに近い規定が見える。もう一つは共同海損で、嵐の中で荷を捨てて船を救ったとき、その損を荷主全員で分け合うという原則である。古代の地中海の海の慣習にさかのぼるとされる。十四世紀になると、ジェノヴァやフィレンツェで、保険料と引き換えに船や荷の危険を他人に引き受けさせる契約が独立した取引として成り立った。現存する最古の海上保険の証書は、1347年のジェノヴァのものとされる。

ハンムラビ法典に関わる図版:P1050763 Louvre code Hammurabi face rwk
ハンムラビ法典Wikimedia Commons Mbzt · CC BY 3.0

十七世紀後半、ロンドンの海運は急速に伸びていた。1651年からの航海法は、イングランドへの輸入をイングランドの船か産出国の船に限り、東インド会社や王立アフリカ会社の船、北アメリカとの貿易船がテムズ川を行き交った。オランダとは三度も戦争をした。保険の需要は膨らんだが、それを引き受ける仕組みはまだ整っていなかった。

そのころロンドンに広がったのが、コーヒーハウスである。1652年に最初の店が開かれてから、店は急速に増え、世紀の終わりには市中に数百とも千を超えるともいわれるほどになった(モカとコーヒーの広がり)。一ペニーを払えば誰でも入れ、新聞が置かれ、客同士が議論した。「ペニー大学」と呼ばれたゆえんである。店ごとに集まる客層が分かれ、ジョナサンズという店には株の売り買いをする人々が集まって、のちの証券取引所の母体になった。学者や文人が集まる店もあった。

1686年ごろ(1688年とする記録もある)、エドワード・ロイドという男が、テムズ川に近いタワー街にコーヒーハウスを開いた。1691年には、商業の中心ロンバード街の広い店に移った。ロイド自身は保険を引き受ける人ではなく、コーヒーを出す店の主人である。だが彼は、自分の客が何を欲しがっているかをよく知っていた。客は船主や船長、商人、そして保険を引き受ける資産家たちで、彼らが求めていたのは情報だった。どの船がいつどこを出て、どの船が着き、どの船が沈んだか。戦争の行方、海賊の出没、港の様子。

ロイドは港々に通信員を置いて船の出入りを知らせさせ、店では最新の知らせが読み上げられた。1696年には、それを『ロイズ・ニュース』として刷り始めた。この新聞は数か月で途絶えたが、1734年、後を継いだ人々が『ロイズ・リスト』を創刊する。船の動静や事故、相場を載せたこの紙は、形を変えながら現在まで続き、世界でもっとも長く続く日刊の刊行物の一つに数えられている(いまは電子版だけになった)。

情報の集まる場所に、引き受け手が集まった。取引のやり方はこうである。仲立人が、航海の内容と保険をかけたい額を書いた紙を持って店の中を回る。どの船で、どこからどこへ、何を積んでいくのか。引き受ける人はそれを読み、自分が負う額を書き込んで、その下に名前を記す。一人で全額を負うのではなく、何人もの個人が少しずつ引き受ける。船が一隻沈んでも、誰も破産しない。下に名前を書く人という意味の「アンダーライター」が、こうして保険の引受人を指す言葉になった。

ロイズの引受人は会社ではなく個人で、のちに「ネーム」と呼ばれた。しかも無限責任を負っていた。払えなければ家も土地も、全財産を差し出す。最後のカフスボタンまで、という言い回しが残っている。この重い責任こそが、ロイズの支払いへの信頼の裏付けだった。

コーヒーハウスからは、もう一つの組織が生まれている。1760年ごろ、店の常連たちが、保険を引き受ける判断の材料にするため、船の造りや状態を等級で記した船の登録簿を作り始めた。これが船級協会ロイド船級の起こりで、保険市場のロイズとは別の組織として、いまも船の安全の基準を定めている。最上の等級を示した記号から、英語では「第一級」を表す言い回しが広まった。

十八世紀の半ばには、保険の名を借りた賭けが横行していた。他人の船が沈むか、有名人が死ぬかに賭けるのである。1769年、それを嫌った引受人たちが店を出て新しいコーヒーハウスを作り、1774年には王立取引所の中に部屋を借りて、店から会員の組織へと姿を変えた。1871年には議会のロイズ法によって法人として認められた。

ロイズの象徴に、一つの鐘がある。1799年、金貨や金塊を積んだイギリスの軍艦ルーティン号がオランダ沖で沈み、乗員のほとんどが命を落とした。その保険金を払ったのがロイズの引受人たちだった。1858年、引き揚げの作業で船の鐘が回収され、のちにロイズの取引の場に吊るされた。昔は船の消息が分かると鐘を鳴らし、一回なら悪い知らせ、二回なら良い知らせとされた。いまは重大な発表や式典のときにだけ鳴らされる。

ロイズはさまざまな危険を引き受けてきた。1906年のサンフランシスコ地震では、引受人カスバート・ヒースが、証書の文言にかかわらずすべての契約者に全額を払えと現地へ電報を打ったと伝えられる。地震による火災は補償の外だとして支払いを渋る保険会社が多い中で、この決定はアメリカでのロイズの評判を決定づけた。1912年のタイタニックの沈没でも、ロイズの市場は保険金を速やかに払った。人工衛星、油田、競走馬、有名人の声や手といった変わった保険も、話題になりやすい。

タイタニックの沈没に関わる図版:Stöwer Titanic
タイタニックの沈没Wikimedia Commons Willy Stöwer · Public domain

一方で、無限責任の怖さが表に出たこともある。1980年代の後半から、アメリカでアスベストや公害をめぐる巨額の賠償が相次ぎ、古い契約の支払いがロイズに降りかかった。数千人のネームが財産を失い、訴訟が何年も続いた。1990年代、ロイズは会社の資本を受け入れ、古い債務を別の組織に切り離す大改革を行った。

いま、ロイズは保険会社ではなく、保険の市場である。引受の集団であるシンジケートがそれぞれの資本で危険を引き受け、ロイズは場所と規則、そして最後の支払いを保証する共同の基金を用意する。1986年に完成したライム街の本部の建物は、配管や階段、エレベーターを外側に出し、内部を柱のない吹き抜けにした大胆な設計で知られる。その中にもルーティン号の鐘が吊るされている。取引の電子化が進んだいまも、仲立人が書類を手に引受人の机を回る対面の取引は消えていない。一軒のコーヒーハウスで始まったやり方が、三百年以上続いている。のちの火災保険と火災標や生命保険の始まりも、同じロンドンの、こうした場から育っていった。

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