概要
テムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
**海上の危険**。
船を出す。積荷を載せる。
嵐、座礁、海賊、拿捕、火事、そして——**戻らない**。
17世紀の遠洋航海で、船が失われる確率は、航路によっては1割を超えた。
一人の商人が全額を負えば、一度の難破で破産する。
**古い解**。
- **冒険貸借**(ボトムリー)。古代からある。船を担保に金を借り、**船が無事に着いたら、高い利息をつけて返す。沈んだら、返さなくてよい**。(実質的に、保険と融資が一体になっている。ハンムラビ法典に、既にこれに近い規定がある。) - **共同海損**。ロドス島の海法(前後の時代は不明)に遡る原則。荷を捨てて船を軽くし、全体を救った場合、その損失を、荷主全員で分け合う。 - 14世紀のジェノヴァとフィレンツェで、**保険契約**が独立した。船と荷を、保険料と引き換えに、他人に引き受けさせる。(現存する最古の海上保険証券は、1347年のジェノヴァのものとされる。)
**ロンドン**。
17世紀後半、イングランドの海運が急拡大した。
- 1651年からの**航海法**。イングランドへの輸入は、イングランド船か、産出国の船に限る。 - 東インド会社、王立アフリカ会社、そして北米との貿易。 - そして、オランダとの三度の戦争。
**保険の需要**が急増した。
しかし、**引き受ける仕組み**が整っていない。
**コーヒーハウス**。
1650年代から、ロンドンにコーヒーハウスが広がった。
(1652年、最初の店。1700年頃、ロンドンに**2000軒以上**あったとされる。)
コーヒーハウスは、単なる飲食店ではない。**情報と、取引の場**だった。
入場料1ペニー。誰でも入れる。新聞が置いてある。議論が行われる。
「**ペニー大学**」と呼ばれた。
そして、**業種ごとに、集まる店が分かれた**。
- **ジョナサンズ**——株式の売買(後のロンドン証券取引所)。 - **ギャラウェイズ**——茶と砂糖。 - **ウィルズ**——文学者(ドライデン、ポープ)。 - **グレシャンとチャイルズ**——学者と聖職者(王立協会の会員が集まった)。
そして——
**エドワード・ロイド**。
1686年頃(1688年とも)、テムズ川に近い**タワー街**に、コーヒーハウスを開いた。
(1691年、より広い**ロンバード街**へ移転。)
彼自身は、保険の引受人ではない。**コーヒーを出す店の主人**である。
**彼がしたこと**。
客——船主、船長、商人、そして保険を引き受ける個人——が集まる。
彼らが欲しがるのは、**情報**である。
- どの船が、いつ、どこを出たか。 - どの船が、着いたか。 - どの船が、沈んだか。 - 戦争の状況。海賊の出没。 - 港の状況。
ロイドは、**その情報を集めた**。
港の通信員を雇い、船の出入りを報告させた。店内で、給仕が最新の情報を読み上げた。
**1696年**、彼は『**ロイズ・ニュース**』を刷り始めた。
(数か月で廃刊。海事裁判所の記事が問題になった、とされる。)
**1734年**、後継者が『**ロイズ・リスト**』を創刊した。
船の動静、事故、そして相場。
**この新聞は、いまも発行されている**。世界で最も古く続いている日刊紙の一つ(現在は電子版のみ)。
**引受**。
店に集まった引受人が、**保険を引き受ける**。
方法。
仲立人(ブローカー)が、案件を書いた紙(**スリップ**)を持って、店内を回る。
「船名〇〇、リヴァプールからジャマイカ、積荷は毛織物、保険金額〇〇ポンド」。
引受人が、その紙を見て、**引き受ける額を書き、その下に署名する**。
一人が全額を引き受けるのではない。**複数の個人が、それぞれ一部を引き受ける**。
(100を、10人が10ずつ引き受ける。一つの船が沈んでも、誰も破産しない。)
**下に、書く人**——**アンダーライター(underwriter)**。
この語が、そのまま、保険の引受人を意味する語になった。
**無限責任**。
ロイズの引受人(「**ネーム**」)は、**個人**である。会社ではない。
そして、**無限責任**を負った。
支払えなければ、**全財産を失う**。家も、土地も。
「**最後のカフスボタンに至るまで(to the last cufflink)**」という言い回しが、ロイズにある。
(この構造が、支払い能力への信頼の根拠だった。同時に、極めて危険である。1980年代後半、アスベストと公害の訴訟による巨額の損失で、多数のネームが破産した。1990年代、法人の資本を受け入れる形に改革された。)
**組織化**。
1769年、一部の引受人が、賭博的な取引(保険の名を借りた投機——他人の船が沈むほうに賭ける、といったこと)を嫌って、店を出た。新しい店を作った。
1774年、王立取引所に移り、**ロイズ**として組織になった。
1871年、**ロイズ法**。議会の法律によって、法人格を得た。
**ロイズの鐘**。
**ルーティン号の鐘**。
1799年、イギリスの軍艦ルーティン号が、金塊(約100万ポンド)を積んで、オランダ沖で沈没した。乗員はほぼ全員が死んだ。
ロイズが、その保険金を支払った(当時としては巨額)。
1859年、サルベージで、船の鐘が引き上げられた。
以後、ロイズの引受室(ザ・ルーム)に吊るされている。
**鐘を鳴らす**。
- **一回**——**悪い知らせ**(船の沈没、大災害) - **二回**——**良い知らせ**(行方不明の船が見つかった)
(現在は、重大な発表と、儀礼的な場面でのみ鳴らされる。2020年以降は、慣例が変わっている。)
**引き受けたもの**。
- タイタニック(1912年。ロイズは30日以内に全額を支払った) - ハリケーン、地震、油田の事故 - **人工衛星** - 競走馬、そして食品の鑑定士の舌 - 有名人の身体の一部(宣伝の要素が大きい) - 双子の出産、宇宙人による誘拐(実際に引き受けられた奇矯な保険は、しばしば宣伝として語られる)
**大きな損失**。
- 1906年、**サンフランシスコ地震**。当時のロイズの引受人カスバート・ヒースが、支店に電報を打った。「**証券の文言にかかわらず、すべての顧客に全額を支払え**」。(アメリカの他の保険会社の多くが、地震は火災保険の対象外として支払いを拒む中で。この決定が、ロイズのアメリカでの評判を決定的にした。) - 1980年代後半〜90年代、アスベスト、汚染、そして健康被害の訴訟。**巨額の損失**。数千人のネームが破産し、自殺者が出た。訴訟が続いた。 - 2001年、9・11。2005年、ハリケーン・カトリーナ。
**現在**。
ロイズは、**保険会社ではない**。
**市場(マーケット)**である。
そこで、シンジケート(引受の集団)が、それぞれの資本で、リスクを引き受ける。ロイズは、その場所と、規則と、そして最終的な支払いの保証(中央基金)を提供する。
ロンドンのライム街に、1986年に完成した建物がある(**リチャード・ロジャース**設計。配管とエレベーターと階段を、すべて建物の**外側**に出した。内部を柱のない広い空間にするため)。
その中央に、**ルーティン号の鐘**が吊るされている。
そして、いまも、ブローカーが紙のスリップを持って、引受人の席を回っている(電子化が進んでいるが、対面の取引が完全には消えていない)。
コーヒーハウスの構造が、340年、残っている。