エンリケ航海王子
概要
ポルトガル王の三男。セウタで戦い、以後45年、アフリカの海岸へ船を送り続けた。自分は一度も探検に出ず、サグレスに住み、船と地図と航海士に金を出した。奴隷貿易もここから始まる。「航海王子」の名は19世紀のイギリス人がつけた。
所属
ポルトガル帝国関わったできごと(4)
セウタ攻略AD1415年8月21日 · 王子マデイラの植民AD1420年 · 送ったボハドル岬の突破AD1434年 · 送り続けた喜望峰の回航AD1488年 · その道を開いた本文
1394年3月4日、ポルトガル北部の港町ポルトに生まれた。父はアヴィス朝を開いたポルトガル王ジョアン1世、母はイングランドの有力な王族ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパである。成人した息子たちの中では三男で、王位を継ぐ立場ではなかった。ポルトガルは、イベリア半島の西の端の小さな国で、東の隣国カスティーリャに陸を阻まれ、目の前には大西洋が広がっていた。

1415年、父王と兄たちとともに、ジブラルタル海峡の対岸、北アフリカのイスラーム教徒の港町セウタを攻め落とした(セウタ攻略)。21歳のエンリケはこの戦いで手柄を立て、騎士に叙された。セウタは、サハラの向こうから運ばれてくる金や、東方の香辛料が集まる交易の町だった。この遠征で、エンリケはアフリカの内陸に富があることを知ったと考えられている。
1420年、エンリケはキリスト騎士団の総長(管理者)になった。この騎士団は、14世紀に解散させられたテンプル騎士団のポルトガルでの財産と人を引き継いで作られたものである。騎士団の豊かな収入が、エンリケの事業を支えた。彼は生涯の多くを、ポルトガル南部のアルガルヴェ地方、大西洋に突き出したサン・ヴィセンテ岬に近いサグレスや、港町ラゴスで過ごした。

そこからエンリケは、毎年のように船を送り出した。まず大西洋の島々である。1420年頃からマデイラ島への植民が始まり(マデイラの植民)、やがてサトウキビが植えられた。さらに西のアゾレス諸島にも人が送られた。そして、アフリカの西岸を南へ下る航海が繰り返された。
当時、アフリカ西岸のボジャドール岬は、船乗りにとって越えられない境だった。その先の海は浅瀬と荒い潮に阻まれ、戻ってこられなくなると恐れられた。海が煮えたぎっているとさえ言われた。エンリケの船は何年も試みては引き返した。1434年、エンリケに仕える従者ジル・エアネスの船が、ついに岬の先へ進み、無事に帰ってきた。岬の先は陸から離れて沖を回れば越えられることが分かったのである。この後、航海は一気に南へ延びていく。
エンリケの事業を語るとき、避けて通れないのが奴隷の売買である。1441年、エンリケの船がアフリカ西岸から現地の人々を捕らえて連れ帰った。1444年、ラゴスの港に、捕らえられた235人のアフリカの人々が陸揚げされた。王子の年代記を書いたズララは、その日の様子を書き残している。人々は野原に集められ、売るために組に分けられた。親と子、夫と妻が引き離され、泣き叫ぶ声が響いた。エンリケは馬上でその様子を見守り、自分の取り分の5分の1を受け取った。ズララは、彼らがキリスト教に導かれて魂が救われることを思えば、この苦しみも意味がある、と書いている。ヨーロッパの国がアフリカ西岸から海路で人々を連れ去る奴隷貿易は、ここから始まった(大西洋奴隷貿易)。

1437年、エンリケは弟のフェルナンドとともに、北アフリカのタンジールを攻めた。この遠征は惨敗に終わった。ポルトガル軍は包囲され、セウタを返すことを条件に退却を許されたが、そのための人質として弟のフェルナンドが残された。だが、ポルトガルはセウタを手放さなかった。フェルナンドはモロッコのフェズの牢で過ごし、1443年に亡くなった。のちにフェルナンドは「聖なる王子」と呼ばれて敬われた。セウタの返還を拒んだのはポルトガルの宮廷全体だったが、遠征を強く推したエンリケには、その責めの一端があった。
1440年代、エンリケは王室から、ボジャドール岬より南への航海と交易を独占する権利を得た。アフリカ西岸のアルギン島には交易の拠点が置かれ、金や奴隷が運ばれてきた。1455年にはローマ教皇が、ポルトガルにアフリカ沿岸の航海と征服の独占を認める勅書を出した。エンリケの船はセネガル川、ガンビア川の河口に達し、ヴェネツィア人の航海者カダモストのように、外国人の船乗りもエンリケのもとで航海に出た。

エンリケは結婚せず、生涯独り身だった。禁欲的な暮らしをしていたと年代記は伝える。1460年11月13日、サグレスの近くの館で亡くなった。66歳だった。その頃までに、ポルトガルの船はアフリカ西岸を、いまのシエラレオネのあたりまで探っていた。
彼の死後もポルトガルの航海は続いた。1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカの南端の喜望峰を回り、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。エンリケが始めた事業は、ポルトガルをアジアとアフリカと南アメリカにまたがる海の帝国にした(物語「大航海時代」)。

エンリケ自身は、遠い海への探検に一度も出なかった。かつてはサグレスに航海学校を開き、船乗りや地図職人、天文学者を集めて航海術を教えたと語られてきたが、学校と呼べるようなものがあった証拠は無い。「航海王子」という呼び名も、19世紀のイギリス人の書いた伝記などによって広まったもので、ポルトガルではふつう「エンリケ王子」と呼ばれる。1960年、没後500年を記念してリスボンのテージョ川のほとりに建てられた「発見のモニュメント」では、船の形をした碑の先頭に、エンリケが船の模型を手にして立っている。