コロンブス
概要
アジアを目指して西へ渡り、別の大陸に着いた。本人は最後までインドだと信じていた。
関わったできごと(1)
コロンブスの到達AD1492年10月12日 · 当人本文
1451年頃、イタリアの港町ジェノヴァで生まれた。父ドメニコは毛織物の職人で、居酒屋を営んだこともあったとされる。若いうちから船に乗り、地中海の交易船でエーゲ海の島まで行っている。

1476年、商船団の一員として大西洋に出たところをポルトガル沖で襲われ、乗っていた船が沈んだ。板につかまって岸まで泳ぎ着いたと、息子の伝記は書く。そのままリスボンに住みつき、地図を作っていた弟バルトロメとともに暮らした。当時のリスボンは、アフリカ西岸を南へ下る航海の拠点で、世界で最も航海の知識が集まる町だった。ポルトガルの貴族の娘と結婚し、北はイングランドやアイルランド、南はアフリカ西岸のギニアまで航海している。
西へ進めばアジアに着く。地球が丸いことは、当時の教養ある人々には知られていた。問題は距離だった。彼は古代の地理学者クラウディオス・プトレマイオスらの数字のうち都合のよいものを選び、地球を実際より4分の1ほど小さく見積もった。さらに、マルコ・ポーロの旅行記などから、アジアが東へ大きく張り出し、その東の海上に黄金の島ジパングがあると考えた。その二つを合わせて、カナリア諸島から日本まで4400キロほどと算定した。実際は2万キロ近くある。

ポルトガル王ジョアン2世に計画を持ち込んだが、断られた。王の専門家たちが計算を検討して、距離の見積もりが小さすぎると結論している。この判断は正しかった。1488年には、ディアスがアフリカ南端を回り、ポルトガルは東回りでインドに向かう道を手にしつつあった。
スペインに移り、カスティーリャの女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンドに願い出た。王室の委員会もやはり計画に疑問を示し、イスラーム勢力のグラナダ王国との戦争を理由に、返事は引き延ばされた。6年ほど待たされて、あきらめてフランスへ向かいかけたところを呼び戻された。1492年1月にグラナダが陥落すると(レコンキスタの完了)、その直後に両王は承諾した。発見した土地の提督、副王、総督の地位と、そこから上がる富の10分の1を受け取るという、異例に有利な契約だった。

1492年8月3日、サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻、90人ほどでスペインのパロス港を出た。カナリア諸島から西へ進む航海は1か月を超え、乗組員の不安が高まった。彼は進んだ距離を実際より少なく記した記録を乗組員に見せていたと、自ら航海日誌に書いている。10月12日、バハマ諸島の島に上陸した(コロンブスの到達)。先住民はその島をグアナハニと呼んでいたが、彼はサン・サルバドルと名付けた。どの島だったかは今も諸説ある。
続いてキューバ、イスパニョーラ島に至った。日誌には、出会ったタイノの人々が穏やかで武器を知らず、よい召使いになるだろう、とも書かれている。サンタ・マリア号はイスパニョーラ島で座礁し、乗組員の一部を残して砦を作らせ、翌1493年3月に帰国した。宮廷では盛大に迎えられ、持ち帰った金の装飾品や先住民の姿が人々を驚かせた。

着いた島をアジアだと信じ、4度の航海を通じてその考えを公には変えなかった。2度目の航海は17隻、千人を超える入植者を伴う大規模なものだったが、最初に残した砦の者たちは全員死んでいた。入植地で彼は先住民に金の採集を割り当て、達しない者を罰した。持ち込まれた病気と過酷な労働で、島の人口は数十年のうちに激減する。のちに司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスが、その惨状を書き残している。
3度目の航海では、南アメリカ大陸のオリノコ川の河口に達し、これほど大量の真水が流れ出すのは巨大な陸地があるからだと気づいた。だが、それを聖書にある地上の楽園の近くだと解釈している。総督としての統治は、先住民への苛烈な扱いに加え、入植者の不満も招いた。1500年、本国から調査に来た役人によって、弟たちとともに鎖につながれてスペインへ送還された。釈放はされたが、総督の地位は戻らなかった。

1502年からの4度目の航海では、中米の沿岸を進んでアジアへの海峡を探したが、見つからなかった。船は虫に食われ、ジャマイカで1年あまり立ち往生した。食糧を拒まれたとき、暦の本で知っていた月食の日を利用し、神の怒りで月が消えると先住民に告げて食糧を得たという話が、息子の伝記に残っている。
1506年、スペインのバリャドリッドで死んだ。富と名誉を約束どおりに受け取れなかったという不満を抱えたままだった。新しい大陸の名は、それがアジアとは別の世界だと書いたアメリゴ・ヴェスプッチから取られた(「新大陸」という認識)。

彼の航海をきっかけに、旧大陸と新大陸のあいだで作物、家畜、人、病気が行き来し始めた(コロンブス交換)。南北アメリカの先住民にとっては、征服と人口の激減の始まりでもあった。かつては「発見者」として称えられ、アメリカでは記念日にもなっているが、近年はその日を先住民の日として祝う州や都市も増えている。「インディオ」「インディアン」という呼び名は、その誤りが今も残っているものになる。