ポリネシア三角形の完成

概要
ハワイ、イースター島、アオテアロアを頂点とする三角形の内側に、人が行き渡った。その海は約2700万平方キロメートルで、ロシアの国土の1.5倍を超える。海が国境ではなく、居住域だった。
場所
-17.65°N -149.43°E · フランス領ポリネシア
本文
北の頂点にハワイ、東の頂点にイースター島(ラパ・ヌイ)、南西の頂点にアオテアロア(ニュージーランド)。この三点を結ぶと、一辺がおよそ7000キロの巨大な三角形になる。面積は2500万平方キロを超え、アフリカ大陸に迫る。その内側の大半は海で、陸地は点のような島々にすぎない。13世紀から14世紀にかけて、この三角形の中の住める島のほとんどに人が行き渡った。
始まりははるか前にさかのぼる。紀元前1500年ごろから、独特の文様の土器を持つ人びとが、ニューギニアの東の島々から東へ船を出した(ラピタ土器の広がり)。彼らは紀元前800年ごろまでにフィジー、トンガ、サモアにたどり着く。ポリネシアの言葉と文化は、このトンガとサモアのあたりで形づくられたと考えられている。

そこで、長い足踏みがあった。トンガ・サモアから東の島々へ進むまでに、1000年以上の空白がある。理由はよく分かっていない。東へ向かうには、ふだん東から吹く貿易風に逆らわなければならないこと、次の島までの距離が一段と遠くなることなどが挙げられているが、決め手はない。
再び動き出すと、速かった。以前は東ポリネシアへの移住は紀元前後から少しずつ進んだと考えられていたが、2010年代に放射性炭素年代を厳しく選び直した研究が出て、見方が変わった。それによれば、タヒチを含むソシエテ諸島に人が来たのは11世紀ごろ、そこから13世紀までのわずか200年ほどのあいだに、北のハワイ(ハワイへの到達)、東のイースター島、そして最後に南西のアオテアロア(アオテアロアへの到達)へと一気に広がったという。年代にはなお議論があるが、短い期間に集中した移動だったという点では、多くの研究者の見方がそろいつつある。

人びとは、二つの船体を板でつないだ双胴のカヌーで海を渡った。帆と櫂で進み、数十人の人と、豚、犬、鶏、そしてタロイモやパンノキ、ヤムイモなどの苗を積んでいた。偶然流れ着いたのではなく、新しい島で暮らすための用意をした計画的な航海だったことが分かる。羅針盤も海図も無い。昇り沈みする星の位置、うねりの向きと重なり方、雲の形、海鳥の飛ぶ方角を読んで進んだ。この技術は口伝えで受け継がれ、20世紀に復元された双胴船が、伝統的な航法だけでハワイからタヒチまでの航海に成功して、その力を示している。
三角形の外まで行った証拠もある。サツマイモは南アメリカ原産の作物だが、ヨーロッパ人が来る前のポリネシアですでに育てられていた。ポリネシアの人びとが南アメリカまで行って持ち帰ったのか、逆に南アメリカの人びとが来たのかは分かっていない。2020年には、東ポリネシアの人びとの遺伝子に、12世紀ごろの南アメリカ先住民との混血の跡があるという研究が発表された。
新しい島に着いた人びとは、そこにあるものを利用し、ときに使い尽くした。アオテアロアには、人が来るまで陸に哺乳類がほとんどおらず、飛べない巨鳥モアが暮らしていた。人が住みついてから200年ほどのうちに、モアは狩り尽くされて絶滅したとみられている。島ごとの暮らしは、持ち込んだ作物が育つかどうか、魚や鳥がどれだけいるかで大きく変わり、同じ祖先を持つ人びとが島ごとに違う社会を作り上げていった。
拡散がなぜ13世紀ごろで止まったのかも問いとして残る。住める島はほぼ埋まったともいえるが、のちに一部の遠い島々は人が去って無人になり、島と島を結ぶ長い航海も途絶えていった。イースター島では人びとが巨大な石像を立て(モアイの造営)、アオテアロアではマオリの社会が独自の道を歩む。互いに数千キロ離れた島々の言葉が、それでも通訳なしに近い形で通じ合うほど似ていることに、18世紀にやって来たヨーロッパの航海者たちは驚いた。クックの航海に加わったタヒチの航海者トゥパイアは、アオテアロアでマオリの人びとと言葉を交わし、通訳の役を果たしている。
海は人を隔てる壁ではなく、行き来の道であり、暮らしの場だった。陸の地図で見ると点の散らばりにすぎないこの三角形は、海を中心に見れば、人類が築いた最も広い文化圏の一つになる。