できごと

アオテアロアへの到達

Settlement of Aotearoa
AD1300年頃
年に諸説あり重要度 4
オーストラリア先住民(狩猟採集)マオリタスマニアの狩猟採集民AD1300年頃アオテアロア(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1300年頃の版図を描いています(3勢力)。

概要

ポリネシア人が人類の定住地として最後の大きな島に着いた。マオリの社会が始まる。

場所

アオテアロア位置は特定されていない(誤差 ±150km)
-41.29°N 174.78°E · ニュージーランド

本文

南太平洋の南西の端に、二つの大きな島とその周りの小島からなる陸地がある。いまのニュージーランドで、マオリの言葉ではアオテアロアと呼ばれる。面積は日本の7割ほどもあり、南極と赤道の中間の温帯に位置する。人類がアフリカを出てから、オーストラリアにも、南北アメリカにも人が住みついた後で、これほど大きな陸地が誰にも住まれずに残っていたのは、ここが最後だった。

そこへたどり着いたのは、太平洋の島々に広がっていったポリネシアの人々である。その祖先は数千年前、東南アジアの島々からメラネシアを経て、トンガやサモアの海に入った人々で、その足跡はラピタ土器の広がりとしてたどることができる。そこから先、帆を張った双胴のカヌーで東へ進み、星の位置、うねりの向き、鳥の飛ぶ方角を手がかりに、まだ見ぬ島を探しては住みついていった。こうしたポリネシア人の太平洋拡散の流れの中で、ソサエティ諸島やクック諸島など東ポリネシアの島々から、さらに北のハワイ、東のラパ・ヌイ、そして南西のアオテアロアへと人々が向かい、ポリネシアの三角形の三つの角が埋まった。

1769年頃、マオリの男性とジョセフ・バンクスがザリガニと布を交換する様子
1769年頃、マオリの男性とジョセフ・バンクスがザリガニと布を交換する様子Wikimedia Commons Tupaia · Public domain

いつ着いたかについては、長く議論があった。20世紀の前半には、一部の口承を組み合わせて、1350年に7艘のカヌーからなる「大船団」が一斉に渡ってきたという説が広く信じられたが、これは今では後世の再構成として退けられている。一時は紀元前後にまでさかのぼるという説も出た。しかし、人と一緒に渡ってきたネズミがかじった種子の年代測定や、1314年ごろの火山の噴火で降り積もった灰の層との関係から、最初の定住は13世紀の後半から14世紀初めごろ、1250年から1300年ごろとする見方が有力になっている。一度ではなく、何度かに分けて渡ってきたと考えられている。

着いた土地は、それまでの熱帯の島々とはまるで違っていた。広く、山が高く、冬には霜が降り、南の島では雪も積もる。カヌーに積んできたココヤシもパンノキも育たず、タロイモやヤムイモも北のごく一部でしか実らなかった。樹皮から布を作るカジノキもうまく育たず、人々は在来の亜麻(ハラケケ)の繊維で衣を編むようになった。

ハーストイーグルがモアを襲う様子を描いた想像図。両種とも絶滅した
ハーストイーグルがモアを襲う様子を描いた想像図。両種とも絶滅したWikimedia Commons John Megahan · CC BY 2.5

ただ一つ、サツマイモ(クマラ)は北島の暖かい地域で育った。冬を越させるには、掘った穴に貯えて寒さから守る工夫が要った。サツマイモはもともと南アメリカの作物で、それがポリネシアに広まっていたことは、ポリネシアの人々が南アメリカまで航海して持ち帰った証拠と考えられている。

最初の住民たちを支えたのは、狩りと漁だった。島には飛べない巨大な鳥モアが何種類もいて、大きなものは立つと人の背丈をはるかに超えた。海岸にはオットセイやアシカが群れていた。人を知らない動物たちは、たやすく狩られた。モアの絶滅は人が住みついてからおよそ150年ほどで起きたとされ、オットセイも多くの浜から姿を消した。

ワイラウ・バー遺跡出土の初期マオリの遺物(カンタベリー博物館)
ワイラウ・バー遺跡出土の初期マオリの遺物(カンタベリー博物館)Wikimedia Commons Szilas · Public domain

大きな獲物が尽きると、暮らしは変わっていった。サツマイモの畑とシダの根、魚と貝、森の鳥が食べ物の中心になる。人口が増えると、部族(イウィ)や小さな親族集団(ハプー)のあいだで、土地と食べ物をめぐる争いが激しくなった。15世紀ごろからは、丘の上に堀と柵をめぐらせた砦(パー)が数多く築かれるようになる。南島で採れる緑色の石(ポウナム)は、斧や装身具の材料として島じゅうで取り引きされた。海を渡る人々が、陸の土地に根を下ろした人々へと変わっていった。

マオリの部族は、それぞれ祖先がどのカヌーで渡ってきたかを語り伝えている。タイヌイ、テ・アラワ、マタアトゥアといったカヌーの名は、いまも部族の系譜の出発点として語られ、自分がどのカヌーの子孫かは名乗りの一部になっている。故郷の島はハワイキと呼ばれ、死者の魂はそこへ帰るとされた。

岬に築かれたマオリの要塞(パー)の模型
岬に築かれたマオリの要塞(パー)の模型Wikimedia Commons Ingolfson at English Wikipedia Later versions were uploaded by Kahuroa at en.wikipedia . ( Original text: en:User:Ingolf · Public domain

1642年にタスマンのタスマニア・ニュージーランド到達でオランダの船が沿岸に現れ、1769年にはイギリスのクックの太平洋航海が島をめぐった。それまでのおよそ500年、アオテアロアの人々は外の世界とほとんど行き来せずに、独自の社会を築いていた。1840年のワイタンギ条約をめぐる問題は、その社会が出会った次の時代の話になる。

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