人物

間宮林蔵

Mamiya Rinzō
AD1780年 – AD1844年4月13日(享年64・推定)
日本重要度 4

概要

常陸の農民の子。伊能忠敬に測量を習った。1808年、松田伝十郎と樺太へ。1809年、一人で北端に近いナニオーまで行き、海峡を渡って大陸のデレンへ。『東韃地方紀行』。帰って隠密になった。シーボルト事件で高橋景保を密告した、と言われる。

所属

日本

関わったできごと(1)

間宮林蔵の樺太探検AD1809年 · 探検

本文

間宮林蔵は1780年、常陸国筑波郡上平柳村(いまの茨城県つくばみらい市)の農家に生まれた(1775年とする説もある)。名は倫宗。利根川の支流の小貝川のほとりの村で、少年の林蔵は、幕府の役人が堰の工事をしているところへ通い、数や地形の飲み込みの早さで目を留められたと伝えられる。この縁で幕府の普請役の村上島之丞に従い、1799年ごろ、20歳前後で蝦夷地へ渡った。

18世紀の終わり、ロシアの船が千島や蝦夷地の沿岸に現れるようになり、幕府は1799年に東蝦夷地を直接治めることに決めた。北の地を測り、地図にし、守ることが急に求められた時代である。林蔵は下役として働くなかで、1800年に箱館で伊能忠敬に出会い、測量の手ほどきを受けた。伊能は56歳、林蔵は20歳ほど。この出会いが林蔵の一生の仕事を決めた。

1806年、林蔵は択捉島で測量に当たっていた。翌1807年、ロシアの軍艦が樺太と択捉の番所を襲った。皇帝の許しを得ずに日本に開国を迫ろうとした、フヴォストフらの襲撃である。択捉の紗那の番所では、林蔵は戦うべきだと主張したが、上役たちは退却を決め、番所は焼かれた。この失態で役人たちは処罰されたが、林蔵は抗戦を説いたことが認められて罪を問われなかったとされる。

当時、樺太が島なのか大陸から突き出た半島なのかは、ヨーロッパの地図でもはっきりしていなかった。フランスのラ・ペルーズもイギリスのブロートンも、北の浅い海で船を進められずに引き返していた。1808年、幕府は松田伝十郎と林蔵を樺太へ送った。二人は南端で分かれ、林蔵は東の海岸を、松田は西の海岸を北上した。東海岸は途中で進めなくなり、林蔵は西へ回って松田に追いついた。松田は西岸の北の方まで進み、そこから先は海が開けていることを見て、樺太は島だと見当をつけていた。

林蔵はそれで満足しなかった。いったん宗谷に戻ると、同じ年のうちに、今度はアイヌの従者だけを連れて再び樺太へ渡った。土地の人々の舟に乗り、ときには氷の上を歩き、樺太で冬を越した。1809年、西岸を北へたどって、海峡の北の出口の近くまで進み、樺太が大陸とつながっていないことを自分の目で確かめた(間宮林蔵の樺太探検)。

それから林蔵は、樺太の北部に住むニヴフ(ギリヤーク)の人々の首長が大陸へ交易に向かうのに同行し、海峡を舟で渡った。アムール川をさかのぼって着いたのが、デレンという場所である。そこには清の役人が出張してくる仮の役所があり、周辺の諸民族がテンなどの毛皮を貢ぎ物として持ってきて、代わりに絹織物などを受け取っていた。この交易品は樺太を経てアイヌの手に渡り、松前へ運ばれて、「蝦夷錦」と呼ばれて珍重された。林蔵はその流れの出どころを見た日本人になった。デレンでは、言葉の通じない役人たちに筆談で問われ、珍しがられたという。

帰国した林蔵の見聞は、村上島之丞の養子の貞助によって、絵入りの『東韃地方紀行』『北夷分界余話』にまとめられ、幕府に差し出された。樺太の人々の暮らし、衣服、舟、清の役所のようすが細かく記されている。当時は公にされず、広く読まれるのはずっと後のことになる。

1811年、ロシアの艦長ゴロヴニンが国後島で捕らえられ、松前に送られた。林蔵はこの捕虜に会いに行き、測量の道具やロシアのことを尋ねた。ゴロヴニンは後に書いた手記で、林蔵を、自分の手柄を誇る、しつこく探りを入れる男として書いている。その後も林蔵は蝦夷地の海岸を歩いて測量を続け、そのデータは伊能忠敬の日本図の蝦夷地の部分に生かされたとされる。

40代になって江戸に戻った林蔵は、勘定奉行の配下で、各地の情勢を探る隠密の仕事をするようになった。異国船の動き、密貿易、諸藩の内情。1836年には、石見の浜田藩の御用商人が竹島(いまの鬱陵島)を足場に密貿易をしていたことが発覚する。林蔵の探索がそのきっかけになったと言われる。

1828年、長崎のオランダ商館の医師シーボルトが帰国する際、国外への持ち出しを禁じられた日本地図を持っていたことが発覚した。地図を渡したのは幕府の天文方の高橋景保で、景保は捕らえられ、翌年獄中で死んだ。シーボルト事件である。この前に、シーボルトから林蔵あてに手紙と贈り物が届いていた。外国人との私的なやり取りは禁じられていたため、林蔵は封を切らずに上役に届け出た。これが景保の取り調べにつながり、林蔵が密告したのだ、と当時から噂された。だが、景保が調べられるに至った経緯にはほかの筋もあり、林蔵の届け出がどこまで事件を動かしたのかは分かっていない。

1844年、林蔵は江戸の深川で死んだ。数えで65歳。妻子は持たなかったとされる。

林蔵の名を世界に伝えたのは、皮肉にもシーボルトだった。帰国後に書いた大著『日本』の地図で、シーボルトは樺太と大陸の間の海峡に「マミヤの瀬戸」と記し、林蔵の発見を讃えた。ロシアでは、1849年に海軍士官ネヴェリスコイがこの海峡を船で通り抜け、いまも最も狭い部分にその名を付けている。国際的にはタタール海峡(間宮海峡)の名が並び、日本では「間宮海峡」と呼ばれる。のちに樺太をめぐって日本とロシアは長く争うことになる(樺太・千島交換条約)。生まれ故郷のつくばみらい市には記念館があり、生家が残されている。

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