アムンセンの南極点
概要
北極点に先を越されて、黙って南へ向きを変えた。犬52頭、5人。犬を食べながら。テントと手紙を残した。5週間後、スコットの5人が着いて、ノルウェーの旗を見た。帰りに全員が死んだ。「神よ、ここは恐ろしい場所だ」。日記は翌年見つかった。
場所
-90.00°N 0.00°E · 南極
関わった人(2)
ロアール・アムンセンAD1872年7月16日–AD1928年6月18日 · 着いたロバート・スコットAD1868年6月6日–AD1912年3月29日頃 · 5週間遅れて着いて、帰りに死んだ本文
ノルウェーのロアール・アムンセンは、若いころから極地を目指してきた探検家だった。1906年には、船で北米の北を抜けて大西洋と太平洋を結ぶ北西航路を初めて通り抜けている。次の目標は北極点だった。先輩のフリチョフ・ナンセンから、氷に閉じ込められても潰れないよう設計された船フラム号を借り(ナンセンのフラム号)、北極海の氷と一緒に漂流して極点に近づく計画を立て、資金を集めていた。
1909年、その計画の足もとが崩れた。アメリカのフレデリック・クックが前年に北極点に着いたと発表し、続いてロバート・ピアリーが同じ年の4月に到達したと名乗りを上げた(ピアリーの北極点)。二人の主張にはいまも疑いがあるが、北極点はもう「最初」の栄誉の残る場所ではなくなった。アムンセンは、資金を出した人々にも、計画を支えたナンセンにも告げず、ひそかに行き先を南極点へ変えた。知っていたのは弟のレオンら、ごく数人だけだった。

1910年の夏、フラム号はノルウェーを出た。表向きの行き先は南米を回って北極海へ向かう航路だった。9月、大西洋のマデイラ島に寄ったところで、アムンセンは乗組員を集めて本当の行き先を明かし、全員の同意を得た。そして、すでに南極へ向かっていたイギリスのロバート・スコットに電報を打った。フラム号が南極へ向かうことをお知らせする、という短い文面だった。スコットはそれをオーストラリアで受け取った。
1911年1月、フラム号はロス棚氷の東の端にあるクジラ湾に着いた。アムンセンは、陸地ではなく厚い棚氷の上に基地を建て、フラムハイムと名づけた。スコットが基地を置いたロス島より、極点まで100キロほど近かった。運んできた犬は100頭近い。秋のうちに、南緯80度、81度、82度に食糧と燃料の補給所を設けた。

アムンセンの計画は、犬を中心に組み立てられていた。犬は人より速く橇を引き、氷の割れ目に落ちても軽い。そして旅が進んで荷が減れば、余った犬を殺して、ほかの犬と人の食糧にする。冷たい計算だが、彼はそれを初めから日程に組み込んでいた。
焦りが失敗を招いたこともある。南の春を待ちきれず、9月8日に8人で出発したが、気温は零下50度を下回り、犬も人も凍傷になって引き返した。帰り道で隊はばらばらになり、ベテランの探検家ヤルマル・ヨハンセンはアムンセンの指揮を人前で激しく批判した。アムンセンは彼を極点の隊から外した。

10月19日、アムンセンは改めて出発した。隊員はオラフ・ビョーラン、ヘルメル・ハンセン、スヴェレ・ハッセル、オスカー・ウィスティングの4人と自分の5人。橇4台を52頭の犬が引いた。全員がスキーと犬橇の扱いに慣れた男たちだった。棚氷の上を一日に30キロ前後の速さで進み、11月には、それまで誰も知らなかった急な氷河を見つけて山脈を登った。のちにアクセル・ハイベルグ氷河と名づけられた道である。標高3000メートルを超える高原に出たところで、予定どおり24頭の犬を殺した。隊員たちはそこを「屠殺場」と呼んだ。
1911年12月14日の午後、5人は観測で極点と見られる地点に着いた。旗竿を立ててノルウェーの国旗を掲げ、まわりの高原をノルウェー王の名にちなんで名づけた。位置を確かめるため、3日かけてまわりを回って測り直した。小さなテントを立てて「ポールハイム」と名づけ、中にノルウェー王ホーコン7世あての手紙と、スコットあての手紙を残した。自分たちが帰り道で死んだときに、スコットに王への手紙を届けてもらうためだった。

帰りは順調だった。1912年1月25日、5人は11頭の犬とともにフラムハイムへ戻った。往復でおよそ99日。3月、フラム号はタスマニアのホバートに着き、アムンセンはそこから世界に知らせを打った。
スコットの隊は、そのころまだ氷の上にいた。彼らは1911年11月、エンジンつきの橇と満州産の小型の馬と犬と人力を組み合わせて出発したが、橇はすぐに壊れ、馬は寒さで弱った。最後は5人が自分たちで橇を引いて高原を進み、1912年1月17日に極点に着いた。前日、彼らは雪の上に立つ黒い旗と、犬の足跡を見つけていた。スコットは日記に、ここは恐ろしい場所だ、と書きつけた。

帰り道で5人は一人ずつ倒れた。2月にエドガー・エヴァンズが死に、3月には凍傷で歩けなくなったオーツが、少し外へ出てくる、しばらくかかるかもしれないと言い残してテントを出て、戻らなかったと日記にある。スコット、ウィルソン、バワーズの3人は、次の補給所まで11マイルほどのところで猛吹雪に閉じ込められた。日記の最後の記録は3月29日の日付である。11月、捜索隊が雪に埋もれたテントを見つけた。中には3人の遺体と日記があり、アムンセンが極点に残したノルウェー王あての手紙も、スコットが持ち帰っていた。
イギリスではスコットが英雄として語られ、アムンセンはときに、犬を食べて勝った男として冷ややかに見られた。勝負を決めたのは、犬と、スキーと、毛皮の服と、補給の計算だった。北極の先住民に学んだ寒さへの備えが、そのまま差になった。一方でスコットの隊は、極地の岩石の標本を最後まで橇に積んでいたように、科学の調査も担っていた。そしてスコットは書き残した。日記の言葉は、アムンセンの短い報告よりずっと多くの人に読まれた。

同じころ、日本の白瀬矗もロス海を目指していた(白瀬矗の南極探検)。1956年、アメリカが極点に建てた基地は、アムンセン・スコット南極点基地と名づけられた。極点の上の氷は1年に10メートルほど動くため、極点の標は毎年1月1日に打ち直される。ポールハイムのテントは、いまでは厚い雪と氷の下のどこかにある。