トンガ海上帝国
概要
島々を結ぶ交易と貢納の網が広がった。海が国境ではなく道だった社会。
場所
-21.18°N -175.20°E · トンガ王国
本文
南太平洋のトンガは、170ほどの島々からなる。そのいちばん大きな島トンガタプは、平らな珊瑚の島で、山も大きな川も無い。この島の人々の祖先は、3000年ほど前、ラピタ土器を作る航海者として西からやって来た(ラピタ土器の広がり)。彼らはトンガとサモアに住みついて、ポリネシアと呼ばれる文化を育み、そこからさらに東の広い海へ漕ぎ出していった(ポリネシア人の太平洋拡散)。
トンガの言い伝えでは、最初のトゥイ・トンガ(トンガの王)はアホエイトゥという。天の神タンガロアが地上に降りて人間の女性との間にもうけた子で、天から降りてきて王になったとされる。10世紀ごろのこととされるが、伝承の系譜から逆算した年代で、確かではない。以後、その血筋を引く王が神聖な存在として代々トゥイ・トンガの位を継いだ。

トゥイ・トンガの力が最も遠くまで及んだのは、12世紀から13世紀ごろと考えられている。言い伝えと考古学の調査からは、西のフィジーの東部の島々、北のサモア、ウヴェア(ウォリス)とフトゥナ、東のニウエなどに、トンガの影響が及んだことがうかがえる。ウヴェアには、トンガ人が築いたとされる砦の跡が残っている。こうした広がりから、「トンガ海上帝国」という呼び名が生まれた。
ただし、これは領土を線で囲み、役人を置いて税を取る帝国ではない。トゥイ・トンガと各地の首長たちとを結んだのは、婚姻と、贈り物と、儀礼だった。トゥイ・トンガの一族の女性が遠くの島の首長に嫁ぎ、その子孫が土地の名家となる。各地からは毎年、上質のござ、樹皮から作った布、赤い鳥の羽根、ヤムイモや魚などの食べ物が、トゥイ・トンガのもとへ届けられた。最初の収穫物を神聖な王に捧げる「イナシ」の儀礼には、遠くの島々からも人々が集まったと伝えられる。贈り物には返礼が行われ、王の威光と品物が、海を渡って行き来した。この網の目の結びつきの強さは時期によって大きく変わり、どこまでを「支配」と呼べるのかについては、研究者の間でも見方が分かれている。

この結びつきを支えたのが、2つの船体を板で結んだ大型の双胴のカヌーである。数十人と荷を乗せ、星と波と風を読んで、何百キロもの海を渡ることができた。大きなカヌーを作るのに向いた木はフィジーに多く、フィジーの船大工の技術がトンガに取り入れられた。トンガの人々にとって、海は国の境ではなく、島と島を結ぶ道だった。舟さえあれば、数百キロ先の島のほうが、陸の上の険しい道の先にある村よりも近いことがある。
トンガタプ島の東部、ラパハの浜に近い一帯は、トゥイ・トンガの都だった。ここには「ランギ」と呼ばれる王族の墓が並んでいる。切り出した珊瑚石灰岩の大きな板を何段にも積み上げた方形の壇で、いちばん大きな石板は重さが数十トンに達するとされる。石をどこから切り出したのかについては、遠くの島から運ばれたという言い伝えがあり、近くの海岸の岩から取ったとする見方もある。
同じトンガタプ島の北東には、「ハアモンガ・ア・マウイ」と呼ばれる巨石の門が立っている。2本の巨大な石柱の上に横石を渡したもので、13世紀の初めごろ、トゥイ・トンガのトゥイタートゥイが建てたと伝えられる。何のために建てられたのかには諸説あり、王宮の門だったとも、季節を知るための目印だったとも言われる。
トゥイ・トンガの力はやがて揺らいだ。言い伝えでは、サモアではトンガの支配に対する反乱が起き、トンガ人が追い出されたという。サモアの名家の称号の由来は、この戦いの話と結びついている(サモアとトンガの海の交流)。15世紀には、トゥイ・トンガが相次いで暗殺される事件が起きた。そこで王は、神聖な祭祀の役は自分に残し、日々の政治と戦の指揮を弟の家系に任せた。トゥイ・ハアタカラウアという新しい称号である。さらに17世紀ごろには、そこから分かれたトゥイ・カノクポルの家系が実権を握るようになった。神聖な王と、政治を担う王が並び立つ仕組みは、日本の天皇と将軍の関係にたとえられることがある。
19世紀、トゥイ・カノクポルの家系から出たタウファアハウが、内戦を経てトンガを統一し、キリスト教に改宗してジョージ・トゥポウ1世を名乗った。1865年に最後のトゥイ・トンガが世を去ると、その位は継がれなかった。トゥポウ1世は1875年に憲法を定め、トンガは1900年からイギリスの保護国となったが、太平洋の島々の中でただ一つ、植民地にならずに王国として続いた。いまのトンガ王家は、この流れを引いている。
ラパハのランギの石と、ハアモンガ・ア・マウイの門は、文字を持たなかった海の王国が、島々を結ぶ網の中心に立っていたことを、いまに伝えている。