できごと

唐辛子の伝播

The spread of the chili pepper
AD1550年頃
重要度 4
明チベットチャガタイ汗国イスラムとヒンドゥーの諸国アユタヤ朝Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアラオスベンガルアイヌモシリPeguAD1550年頃長崎
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1550年頃の版図を描いています(18勢力)。

概要

中南米原産。コロンブスが胡椒だと思って持ち帰り、胡椒(pimienta)から取った名を与えた。ヨーロッパでは当初、観賞用と薬だった。広めたのはポルトガル船である。1500年代、インドのゴアへ、東南アジアへ、そして中国と朝鮮へ。日本には16世紀に伝わった(南蛮胡椒、高麗胡椒)。安く、育てやすく、暑い土地でよく実る。100年ほどで、四川、湖南、タイ、韓国、ハンガリーの食が塗り替えられた。伝統に見えるものの多くは新しい。

場所

長崎
32.75°N 129.88°E · 長崎県

本文

唐辛子は、アメリカ大陸の植物である。野生の祖先はボリビアからブラジル南西部のあたりで生まれたとされ、メキシコや南アメリカでは数千年前から畑で育てられていた。アステカの人々の言葉ナワトル語では「チリ」と呼ばれ、日々の食事に欠かせない味であり、貢ぎ物の品であり、薬でもあった。16世紀にアステカの暮らしを描いた絵文書には、言うことをきかない子どもを、唐辛子をいぶした煙にさらして懲らしめる場面まで描かれている。

1492年、コロンブスはアジアの香辛料を求めて西へ船出し、カリブ海の島々にたどり着いた(コロンブスの到達)。彼が探していたのは、ヨーロッパで高く売れる黒胡椒だった。1493年1月、最初の航海の帰路につく前、コロンブスは航海日誌に、島の人々が「アヒ」と呼ぶ実を食べていること、それは彼らの胡椒で、胡椒よりも値打ちがあり、誰もがこれ無しでは食事をしないことを書きとめた。こうして唐辛子は、スペイン語で胡椒を意味する名で呼ばれるようになり、英語でも胡椒と同じ名が付いた。だが植物としては、コショウ科の黒胡椒とはまったく別の、ナス科の仲間である。

農業百科事典『成形図説』の唐辛子の図(1804年)
農業百科事典『成形図説』の唐辛子の図(1804年)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · CC BY 4.0

ヨーロッパでの受け止め方は、冷ややかだった。唐辛子はスペインやポルトガルの修道院の庭で育てられ、薬草として扱われた。北の国々では、赤い実を楽しむ鉢植えだった。涼しい土地では実が小さく、辛さも弱かった。香辛料の取引で儲けていた商人たちにとって、誰でも育てられる安い代わりの品は、歓迎すべきものではなかった。のちにハンガリーで、オスマン帝国を通じて入った唐辛子が「パプリカ」として根づくまで、ヨーロッパの料理を大きく変えることはなかった。

唐辛子を世界に広めたのは、スペインよりもむしろポルトガルの船だった。1498年にヴァスコ・ダ・ガマのインド航路を切り開いたポルトガルは、リスボンから西アフリカ、喜望峰を回ってインドのゴア、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、そして日本へと、港をつなぐ航路を作った。その港から港へ、唐辛子の種が運ばれていった。アフリカでは各地の料理に取り入れられ、エチオピアの香辛料の混ぜ物や、東アフリカの辛い調味料が生まれた。インドでは、16世紀のうちに南の地方に根づき、いまではインドは世界最大の唐辛子の生産国になっている。

赤唐辛子の木(ミャンマー・シャン高原)
赤唐辛子の木(ミャンマー・シャン高原)Wikimedia Commons Vyacheslav Argenberg · CC BY 4.0

東アジアにも、16世紀のうちに届いた。中国では、1591年に出た明の書物に「番椒」、つまり外国の山椒として現れ、そこでは花を楽しむ植物として扱われている。朝鮮では、1614年の『芝峰類説』という書物に、倭(日本)から来たので「倭芥子」と呼ぶ、と書かれている。日本では「南蛮胡椒」や「高麗胡椒」と呼ばれた。日本への伝来の経路と時期には諸説がある。16世紀半ばにポルトガル人が持ち込んだとする説、豊後の大名に献上されたとする説、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵のころに朝鮮半島との往来で入ったとする説などである。日本の側は朝鮮から来たと呼び、朝鮮の側は日本から来たと呼んでいるのが面白い。

なぜ、これほど速く広まったのか。まず、安い。種を蒔けば、誰でも庭先で育てられる。高価な胡椒に手の届かない人々にも使えた。暑い土地でよく実り、乾かせば長く保存できる。塩が貴重な内陸の土地では、乏しい食事に味を付ける手段にもなった。暑い地方で香辛料が多く使われるのは、食べ物の傷みを遅らせる働きがあるからだ、という研究もある。辛いものを食べて汗をかくと、体が冷えるとも言われる。

干された唐辛子の束(リストラ)
干された唐辛子の束(リストラ)Wikimedia Commons Kissmykumbaya · CC0

辛さの正体は、カプサイシンという物質である。これは舌や口の中で熱や痛みを感じる仕組みに働きかけ、実際には熱くないのに「熱い」と感じさせる。植物がこの物質を作るのは、哺乳類に実を食べさせないためだと考えられている。哺乳類は種を噛み砕いてしまうが、鳥は実を丸のみにして、種を遠くへ運んでくれる。そして鳥は、カプサイシンの辛さを感じない。辛さは、種を運ぶ相手を選ぶための仕掛けだった。人間は、その防御の信号を楽しむようになった珍しい哺乳類である。アメリカの心理学者は、危険ではないと知りながら痛みや恐怖を楽しむこの性質を、「害のない自虐」と呼んだ。

唐辛子の辛さは、1912年にアメリカの薬剤師ウィルバー・スコヴィルが考えた単位で測られる。もとは、唐辛子の抽出液を砂糖水で薄めていき、人が辛さを感じなくなるまでに何倍に薄めたかを数えるものだった。ピーマンは0、ハラペーニョは数千、ハバネロは数十万に達する。

チポトレ(スモークした唐辛子)
チポトレ(スモークした唐辛子)Wikimedia Commons Badagnani · CC BY 3.0

唐辛子は、各地の食を塗り替えた。いま「その土地の伝統の味」に見えるものの多くは、500年に満たない。中国の四川や湖南の辛い料理に唐辛子が欠かせなくなったのは、18世紀以降とされる。四川の舌がしびれる辛さは、土地にもともとあった花椒と、新しく来た唐辛子の組み合わせである。朝鮮半島のキムチが赤くなるのも、18世紀からだった。それまでのキムチは、塩漬けの白いものが中心だった。ハンガリーの煮込み料理グヤーシュにパプリカがたっぷり入るようになったのは、18世紀から19世紀のことである。インドのゴアの名物料理ヴィンダルーの名は、ワインとにんにくを意味するポルトガル語に由来する。

唐辛子の旅は、16世紀に始まった大きな交換の一部だった(コロンブス交換)。食の文化は、思っているよりも新しく、思っているよりも遠くから来ている。赤い唐辛子の色は、大航海時代の船の航跡が、いまも世界中の台所に残っているしるしである。

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