ヴィンランドへの入植
概要
コロンブスの500年前に、ノース人が北米に住んだ。ニューファンドランドで鉄の鍛冶場と建物の跡が出た。数年で引き上げている。
場所
51.60°N -55.53°E · カナダ・ニューファンドランド島
関わった人(1)
グズリーズ・ソルビャルナルドッティル息子を産んだ本文
9世紀から10世紀、北欧のノース人(ヴァイキング)は、北大西洋の島々を西へ西へと渡っていった。870年代にはアイスランドに住みつき(アイスランド入植)、980年代には、殺人の罪で追放された赤毛のエイリークが、さらに西の大きな島を見つけて「緑の島」グリーンランドと名づけ、仲間を率いて入植した(ノルウェー人のグリーンランド入植)。グリーンランドの南西の入り江に、数百の農場が営まれるようになる。
そのさらに西に陸地があることを語るのが、13世紀ごろにアイスランドで書き記された二つのサガ、『グリーンランド人のサガ』と『赤毛のエイリークのサガ』である。それによれば、グリーンランドへ向かう途中で航路を外れた船乗りが、西に森に覆われた陸地を見た。エイリークの息子レイフ・エリクソンがその陸地を探しに出かけ、岩だらけの土地、森の土地を経て、さらに南で、野生の葡萄が実り、川に大きな鮭がいる豊かな土地に着いた。彼はそこを「葡萄の地」、ヴィンランドと名づけ、冬を越して帰った(ヴィンランド到達)。

レイフの後、何人かがヴィンランドを目指した。サガで最も詳しく語られるのが、アイスランドの商人ソルフィン・カルルセフニと、その妻グズリーズ・ソルビャルナルドッティルの遠征である。グズリーズは、レイフの兄弟の未亡人でもあった。夫妻は数十人から百数十人の男女と家畜を連れて西へ渡り、住みつこうとした。サガによれば、ヴィンランドでグズリーズは息子スノッリを産んだ。アメリカ大陸で生まれた、記録に残る最初のヨーロッパ系の子どもとされる。
ヴィンランドには先住の人びとがいた。サガは彼らを「スクレーリング」と呼んでいる。初めは毛皮と、ノース人の布や乳製品を取り換える交易が行われた。しかしやがて争いが起き、皮の舟で大勢押し寄せた先住民に、ノース人は追い立てられた。数の少ない入植者たちは、絶えず襲われる不安の中で暮らすことに耐えられず、数年でグリーンランドへ引き上げたという。

長いあいだ、ヴィンランドの話はサガの中だけのもので、どこまで本当かは分からなかった。それを変えたのが、ノルウェーの探検家ヘルゲ・イングスタと、考古学者の妻アンネ・スティーネ・イングスタである。二人はサガの記述を手がかりに北アメリカの海岸を調べて回り、1960年、カナダのニューファンドランド島の北端、ランス・オ・メドーで、草に覆われた建物の跡に行き当たった。
1960年代に続けられた発掘で、芝土の壁を持つ建物の跡が8棟見つかった。大きな広間を持つ住まいが三つ、そのほかは作業小屋である。沼の鉄鉱石から鉄を作った鍛冶場があり、船の修理に使う鉄の鋲が出た。当時のこの地方の先住民は、鉄を作っていなかった。建物の形も、アイスランドやグリーンランドのノース人のものと同じだった。糸を紡ぐ道具の重りや骨の針も出土し、女性も暮らしていたとみられる。さらに、この地では育たないクルミの仲間の実が見つかった。もっと南の、野生の葡萄が育つセントローレンス湾の沿岸まで足を延ばしていた証拠と考えられている。

年代も絞り込まれた。2021年には、ここで切られた木材の年輪に、993年に地球に降り注いだ宇宙線の痕跡が残っていることから、その木が1021年に伐採されたことが突き止められた。ノース人が少なくともこの年、ここにいたことが確かになったのである。コロンブスの到達(コロンブスの到達)より471年前のことになる。
ランス・オ・メドーは、長く住むための村ではなく、さらに南の土地へ向かう拠点、あるいは船の修理や越冬のための中継地だったと考えられている。使われたのは長くても十年ほど、人数は多い時で数十人ほどとみられる。家畜を飼った跡は少なく、ゴミの捨て場も小さい。サガがヴィンランドと呼んだ土地そのものではなく、その入口だった可能性が高い。

ノース人はアメリカ大陸に確かに届いていた。しかし、本国から遠く離れ、人数も物資も乏しく、先住の人びとと争いながら暮らしを続けることはできなかった。グズリーズはその後アイスランドに戻り、晩年はローマへ巡礼して修道女になったと伝えられる。グリーンランドの入植地も、15世紀には消えていった(ノルウェー領グリーンランドの終焉)。北大西洋を渡った最初のヨーロッパ人の足跡は、こうして一度途切れ、その記憶はサガの中に残された。