ツタンカーメン王墓の発見

概要
ほぼ未盗掘の王墓が見つかった。少年王が有名なのは、その治世ではなく墓が残ったため。
場所
25.72°N 32.61°E · エジプト・ルクソール
関わった人(1)
ツタンカーメンBC1341年頃–BC1323年頃 · 被葬者本文
ハワード・カーターは、1891年に17歳で、遺跡の壁画を写す助手としてエジプトに渡った。発掘の現場で経験を積み、エジプト考古局の監督官を務めたこともある。1907年からは、イギリスの貴族カーナヴォン卿の出資で発掘を続けていた。
狙いは、ルクソール西岸の王家の谷にまだ見つかっていない王墓、とくにツタンカーメンの墓だった。谷はもう掘り尽くされたと考える研究者が多かった。それでもカーターは、この王の名を記した遺物が谷で見つかっていることから、墓はまだどこかにあると信じていた。1917年から谷の発掘を始めたが、5シーズン続けても成果は出ない。カーナヴォン卿は資金を打ち切ろうとした。カーターが説得して、1922年の秋をもう一季節だけ認めさせた。

1922年11月4日、ラムセス6世の墓の入口の下で、古代の作業小屋の跡を片づけていた作業員が、岩を刻んだ階段の一段目を掘り当てた。翌日までに階段は16段まで現れ、その先に、漆喰で塞がれ封印の押された扉があった。カーターは扉を開けずに埋め戻し、イギリスにいるカーナヴォン卿に電報を打った。卿と娘のイヴリンが着いたのは11月23日になる。
11月26日、二つ目の扉の左上に小さな穴を開け、カーターは蝋燭を差し入れた。中から出てくる空気で炎が揺れ、やがて目が慣れると、金色に光る動物の像や彫像や箱が浮かび上がった。後ろからカーナヴォン卿が「何か見えるか」と聞き、カーターは「ええ、素晴らしいものが」と答えた、とカーター自身が著書に書いている。当日の日誌の言葉は少し違っていて、後で整えられたとも考えられている。

墓は4つの部屋からなり、王墓としては小さかった。前室には分解された戦車、寝台、椅子、箱が詰め込まれていた。玄室は1923年2月16日に開かれ、金箔を張った4重の厨子が石棺を囲んでいた。石棺の中には3重の人型の棺があり、いちばん内側の棺は純金で、重さは110kgを超える。1925年の秋、ミイラの顔を覆う黄金のマスクが現れた。重さ約10kg、金にラピスラズリや色ガラスを嵌め込んである。
出土品は5000点以上にのぼった。衣服、杖、弓矢、ゲーム盤、食べ物、ワインの壺。宝物庫には、生まれる前に死んだ二人の女児のミイラも納められていた。王の子と考えられている。カーターたちは、すべてを写真に撮り、番号を振り、記録しながら運び出した。作業には約10年かかり、終わったのは1932年になる。

墓がほぼ手つかずで残った理由は、いくつか重なる。実は墓は古代に少なくとも二度、盗掘に入られていた。しかしそのたびに役人が片づけて封印し直している。その後、およそ200年後にラムセス6世の墓が上に掘られたとき、作業員の小屋と残土が入口を覆い、場所が忘れられた。王の治世が短く、名が早くから忘れられたことも幸いした。
発見は世界的な事件になった。カーナヴォン卿はタイムズ紙に独占の報道権を与え、締め出されたほかの新聞は別の話題を探した。1923年4月5日、カーナヴォン卿がカイロで死ぬ。蚊に刺された跡を剃刀で傷つけ、そこから感染が広がって肺炎を起こしたとされる。新聞はこれを「ファラオの呪い」として書き立てた。墓に呪いの言葉が刻まれていたという話も広まったが、そのような碑文は見つかっていない。カーター自身は1939年まで生き、墓の開封に立ち会った人の多くも長生きしている。

出土品の扱いも、時代の変わり目に重なった。それまでの慣行では、発掘の成果は出資者とエジプトで分けられた。1922年に形の上での独立を得たばかりのエジプトは、王墓の副葬品を国外に出すことを認めず、すべてがカイロに残った。カーナヴォン家は補償を受け取っている。
ツタンカーメンは、父とされるアクエンアテンのアクエンアテンの宗教改革を元に戻した王で、9歳前後で即位し、10年ほど治めて10代の終わりに死んだと考えられている(ツタンカーメンの治世)。死因については、骨折からの感染、マラリア、生まれつきの病などが議論されていて、決着していない。治世の事績は乏しく、のちの王の名を並べた表からは名前が外されていた。

それでも最も有名なファラオになった。理由は、墓が残ったことに尽きる。1970年代に黄金のマスクが海外を巡った展覧会には、どの街でも長い行列ができた(博物館に行列ができる)。偉大だったから残ったのではない。残ったから、偉大に見えるようになった。