ロバート・スコット
概要
海軍。1902年、南極。1911年、テラ・ノヴァ。ポニーと機械橇と人力。南極点、1912年1月17日。帰り、エヴァンズ、オーツ「少し外へ出てくる」、そして3人。補給所まで18キロ。「これらの走り書きと我々の死体が物語を語る」。英雄になった。
関わったできごと(1)
アムンセンの南極点AD1911年12月14日 · 5週間遅れて着いて、帰りに死んだ本文
ロバート・ファルコン・スコットは、1868年6月6日、イングランド南西部の軍港プリマスの近くで生まれた。13歳で海軍の練習艦に入り、軍人の道を歩んだ。父の事業の失敗と死で家は苦しくなり、スコットは昇進して家族を支えることを常に意識していたという。

若い士官だったスコットに目をつけたのは、王立地理学協会の会長クレメンツ・マーカムである。マーカムは南極探検の計画を進め、1901年、その隊長にスコットを選んだ。船の名からディスカヴァリー遠征と呼ばれる。スコットは1902年の末、医師エドワード・ウィルソン、アーネスト・シャクルトンとともに犬橇で南へ進み、南緯82度17分に達した。帰り道でシャクルトンは壊血病に苦しみ、スコットは彼を病人として先に本国へ帰した。二人のあいだにはその後もわだかまりが残った。
1908年、スコットは彫刻家キャスリーン・ブルースと結婚し、翌年息子ピーターが生まれた。その頃、シャクルトンは南極点まで180キロ足らずに迫って引き返していた。スコットは南極点を目指す新たな遠征を組み、1910年6月、テラ・ノヴァ号でイギリスを発った。

オーストラリアのメルボルンに着いたとき、ノルウェーのロアール・アムンセンから電報が届いた。南極へ向かうという短い知らせだった。北極点を目指すと見られていたアムンセンが、行き先を変えたのである。南極点への競争が始まった。同じ頃、日本の白瀬矗も南極をめざしていた(白瀬矗の南極探検)。
スコットは、満洲産のポニー、モーター橇、犬橇、そして人が橇を引く方法を組み合わせた。犬だけに頼ったアムンセンとは対照的だった。1911年の初め、帰り道のための食料の貯蔵所を南へ設けたが、ポニーが弱って予定より手前の南緯79度29分に「1トン貯蔵所」を置くことになった。この位置が、のちに生死を分ける。

1911年11月1日、本隊が基地を出発した。モーター橇はすぐに故障し、ポニーは殺され、犬は途中で帰された。ビアドモア氷河を人力で登り、極地の高原に出たところで、スコットは最後の隊を5人と決めた。スコット、ウィルソン、ヘンリー・バワーズ、ローレンス・オーツ、エドガー・エヴァンズ。4人の予定を急に5人にしたため、食料の配分は苦しくなり、バワーズはスキーを先に置いてきていた。
1912年1月17日、5人は南極点に着いた。そこにはアムンセン隊の黒い旗とテントが残っていた。彼らが着く1か月余り前、アムンセンはすでに極点に立っていた(アムンセンの南極点)。スコットは日記に、ここは恐ろしい場所だと書いた。

帰り道は寒さと飢えとの戦いになった。2月17日、頭を打って弱っていたエヴァンズが死んだ。凍傷で歩けなくなったオーツは、3月16日か17日、「ちょっと外へ出てくる。しばらく戻らないかもしれない」と言ってテントを出て、吹雪の中へ消えた。残る3人は、1トン貯蔵所まで約18キロのところで吹雪に閉じ込められた。最後の日記は3月29日付で、「どうか我々の家族の面倒を見てほしい」と結ばれている。国民への手紙には、もし生きていれば仲間の勇気の物語を語れたのに、と書き、これらの走り書きと我々の死体がその物語を語るだろうと記した。
その年の11月12日、捜索隊がテントを見つけた。3人の遺体のそばには、日記と手紙、そして最後まで捨てずに引いてきた約16キロの岩石の標本があった。中には、南極がかつて温暖だったことを示す植物グロッソプテリスの化石が含まれていた。1913年2月に知らせが届くと、イギリスは国を挙げて悲しみ、スコットは英雄になった。

その評価は、のちに大きく揺れた。1979年、作家ローランド・ハントフォードは、スコットの準備と判断の誤りを厳しく批判した。2001年、大気科学者スーザン・ソロモンは、気象の記録から、その年の3月が例年になく寒かったことを示し、不運も大きかったと論じた。いまでは、判断の誤りと不運の両方があったとみる人が多い。
息子のピーター・スコットは鳥類の研究者・画家となり、世界自然保護基金(WWF)の設立に加わった。父は遺書の中で妻に、息子に博物学への関心を持たせてほしいと書いていた。南極点にあるアメリカの観測基地は、アムンセン・スコット基地と名付けられている。