ヴァスコ・ダ・ガマ
概要
アフリカを回ってインドに着いた。地中海を通らない交易路が開く。
関わったできごと(3)
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路AD1498年 · 当人カリカット到着AD1498年5月20日 · 到達マラッカの陥落AD1511年 · 航路を開いた本文
ヴァスコ・ダ・ガマは1460年代に、ポルトガル南部の港町シネスで、町の長官を務める下級貴族の家に生まれた。若い頃の経歴はほとんど分かっていない。航海術や数学を学んだらしいこと、王に仕える騎士団に属していたことが知られる程度である。

ポルトガルは15世紀の初めから、エンリケ航海王子のもとでアフリカの西岸を少しずつ南へ探り、金や奴隷の交易で富を得ていた。目指していたのは、アジアの香辛料を、イスラーム教徒の商人やヴェネツィアを介さずに手に入れることだった。1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカの南端を回り、インド洋への入り口を見つけた(喜望峰の回航)。その先へ艦隊を率いる役に、国王マヌエル1世は、まだ30歳前後で大きな航海の経験も無いガマを選んだ。なぜ彼だったのかは、はっきりしていない。
1497年7月、ガマは4隻の船と150人ほどの乗組員を率いてリスボンを出た。大西洋で陸から大きく離れて南へ弧を描く航路をとり、3か月余り陸を見ずに進んで、11月に喜望峰を回った。アフリカの東岸を北上すると、そこはアラブやインドの商人が行き交う、豊かな交易の海だった。モザンビークやモンバサでは土地の支配者と衝突したが、マリンディの王はガマを歓迎し、インドへの水先案内人を世話した(マリンディの水先案内)。季節風に乗ってアラビア海を渡り、1498年5月、インド南西岸の港町カリカットに着いた(カリカット到着)。

カリカットは香辛料の取引で栄える大きな港で、その王は世界中の商人を迎え入れていた。ガマが差し出した献上品は、布や帽子、砂糖や蜂蜜などで、王の側近や商人たちに笑われたという。交渉は思うように進まず、ガマは香辛料をわずかに積んで帰路についた。帰りは季節風に逆らう航海になり、壊血病で多くの乗組員が死んだ。1499年にリスボンへ戻ったとき、生き残ったのは出発時の半分に満たなかった(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。それでも、持ち帰った香辛料は航海の費用を大きく上回る値で売れた。アフリカを回ってアジアと直接取引できる道が、ここに開かれた。
翌1500年、カブラルの率いる次の艦隊がインドへ向かい、途中でブラジルに着いた(カブラルのブラジル到達)。カブラルはカリカットでイスラーム教徒の商人と争い、ポルトガルの商館が襲われた。報復と、インド洋の交易を力で握るために、1502年、ガマは20隻前後の武装した艦隊を率いて再びインドへ向かった。

2度目の航海は、暴力に満ちていた。インドの沖で、ガマの艦隊はメッカへの巡礼から帰る船を捕らえた。乗っていた商人たちは財産を差し出す代わりに命乞いをしたが、ガマは積荷を奪ったうえで船に火を放たせた。乗客は数百人で、女性や子どもも含まれていたことを、乗り組んでいたポルトガル人自身が書き残している。カリカットに着くと、ガマは王にイスラーム教徒の商人をすべて追い出すよう要求し、拒まれると町を砲撃した。港で捕らえた漁民や船乗りの手や耳、鼻を切り落とし、それを王のもとへ送りつけた。一方で、カリカットと対立するコーチンなどの王と手を結び、香辛料を積んで帰国した。
インド洋の交易は、それまで、多くの国の商人がおおむね武力によらずに行き交う海だった。ポルトガルはそこに、大砲を積んだ艦隊で港を押さえ、通行証を持たない船を襲うやり方を持ち込んだ。その後のポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカを拠点に、海の帝国を築いていく(ポルトガル帝国)。
帰国したガマは富と所領を得たが、その後20年ほどは大きな役職から遠ざけられた。1519年に伯爵となり、1524年、インドの植民地の腐敗を正すために、副王としてインドへ送られた。だが着任から3か月余りの1524年12月、コーチンで病のため死んだ。50代の半ばから60代の前半だったとみられる。遺骨はのちにポルトガルへ運ばれ、いまはリスボンのジェロニモス修道院に眠る。
ポルトガルでは、ガマは国の黄金時代を開いた英雄である。16世紀の詩人カモンイスは、彼のインド航海を主題に叙事詩『ウズ・ルジアダス』を書いた。だがインドやアラブの側の記録には、ガマの名は、海に暴力を持ち込んだ侵入者として残っている。ガマより70年から90年ほど前には、明の鄭和の大艦隊が同じ海を何度も訪れ、各地の王に朝貢を求めていた(鄭和の南海遠征)。