ロアール・アムンセン
概要
医学をやめて船へ。1906年、北西航路を最初に通り抜けた。イヌイットに犬と毛皮を習った。1911年、南極点。1926年、飛行船ノルゲで北極点を越えた。1928年、墜落したノビレを探しに飛んで、消えた。北も南も、彼が最初に。
関わったできごと(1)
アムンセンの南極点AD1911年12月14日 · 着いた本文
1872年7月16日、ノルウェー南東部ボルゲの、船主の家に生まれた。4人兄弟の末っ子で、まもなく一家は首都クリスチャニア(いまのオスロ)に移った。15歳のころ、北極で消息を絶ったイギリスのフランクリン隊(フランクリン隊の遭難)の記録を読んで、探検家になると決めたという。17歳のとき、フリチョフ・ナンセンがスキーでグリーンランドを横断して帰国し、町が熱狂するのを見た。母は息子を医者にしたがったので大学で医学を学んだが、21歳で母が亡くなると、すぐに学業をやめた。

探検家になるために、彼は体を鍛え、冬の山でスキーの遠出を重ね、船乗りの資格を取った。指揮官が船長の資格を持たないと、いざというとき船の上で命令が通らないと考えたからである。1897年、ベルギーの南極探検船ベルジカ号に一等航海士として乗り組んだ。船は氷に閉じ込められ、人類で初めて南極の冬を越すことになった。乗組員は壊血病に倒れ、隊長まで寝込んだ。船医のアメリカ人フレデリック・クックとアムンセンは、アザラシやペンギンの生肉を食べさせて仲間を救った。極地では土地の食べ物と土地のやり方が人を生かす。この教訓が、のちの彼の探検を貫いている。
1903年、47トンの小さな漁船ヨア号に7人で乗り、大西洋から北アメリカの北の多島海を抜けて太平洋へ出る北西航路に挑んだ。何百年ものあいだ、多くの探検隊が命を落とした航路である。彼はキング・ウィリアム島の入り江に2度冬を越し、近くに住むネツィリクのイヌイットから、犬ぞりの扱い方、毛皮の服の作り方、雪の家の建て方を学んだ。毛皮の服はゆったり着て汗を逃がすこと、犬を急がせすぎないこと。白人の探検家が見下していた人々を師と呼んだ最初の一人だった。1906年夏、アラスカのノームに着き、北西航路を船で通り抜けた最初の人となった(北西航路の初めての通過)。

次の目標は北極点だった。ナンセンからフラム号を借り、北極海の氷とともに漂う計画を立てた。ところが1909年、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に達したと発表した(ピアリーの北極点)。資金を集める大義を失った彼は、行き先を南極点に変えることにし、それを誰にも告げずに出航した。乗組員に打ち明けたのは大西洋のマデイラ島であり、同じく南極点を目指していたイギリスのロバート・スコットには、南極へ向かうと短い電報を打った。
1911年1月、南極のロス棚氷の鯨湾に基地を築いた。スコットが馬と動力そりを頼みにしたのに対し、彼は犬ぞりとスキーに賭けた。10月、4人の仲間と52頭の犬で出発し、氷河を登って高原に出ると、計画どおり犬を減らしながら食料にした。1911年12月14日、南極点に着いた(アムンセンの南極点)。テントを張り、スコットへの手紙を残して引き返し、全員無事に基地へ戻った。スコットの隊は1か月余り後に南極点でノルウェーの旗を見つけ、帰り道で全員が死んだ。イギリスでは、悲劇の英雄スコットに対して、彼を目的を偽った競争相手と見る冷たい声が長く続いた。同じころ、白瀬矗の南極探検の白瀬隊の船も鯨湾に来て、フラム号と出会っている。

1918年、新しい船モード号でシベリアの北を回る北東航路に出た。19世紀に一度通られただけの航路で、氷に阻まれて何年もかかった。やがて関心は空へ移った。1925年、アメリカの富豪リンカーン・エルズワースの資金で飛行艇2機を飛ばし、北緯87度台まで達したが、1機を失い、氷の上で3週間かけて滑走路を作って帰ってきた。1926年5月、イタリアの技術者ウンベルト・ノビレが設計し操縦する飛行船ノルゲ号で、スピッツベルゲンから北極点の上を越え、アラスカまで飛んだ。直前にアメリカのバードが飛行機で北極点に達したと発表していたが、バードの到達もピアリーの到達も後に強く疑われている。そのため、ノルゲ号の乗員こそ北極点に確かに達した最初の人々だった、とする見方が有力である。ただ、飛行のあと功績の分け方をめぐってノビレと激しく争った。
1928年5月、ノビレが率いる飛行船イタリア号が北極海で墜落した。アムンセンは不仲を脇に置いて救助に名乗り出た。6月18日、フランスの飛行艇ラタム47号にフランス人とノルウェー人の仲間5人と乗ってノルウェー北部のトロムソを飛び立ち、それきり消息を絶った。のちに機体の浮きと燃料タンクが海で見つかり、バレンツ海に墜落したと考えられている。ノビレたちは別の救助隊に助け出された。機体は2009年にノルウェー海軍が無人の潜水艇で探したが、見つからなかった。55歳だった。

生涯独身で、オスロ南のフィヨルドに面した家ウラニエンボルグに住んだが、晩年は探検の借金に追われ、家まで売ろうとしていた。かつてベルジカ号で命を救い合ったクックが詐欺の罪で投獄されたとき、世間の目をよそに刑務所まで面会に行っている。北西航路、南極点、北東航路、北極点の上空。極地の大きな目標のほとんどに最初に名を刻んだ人だが、本人は、成功は準備で決まり、運と呼ばれるものはその結果にすぎない、という意味のことを書き残している。