ハワイへの到達

概要
数千kmの外洋を渡って到達した。星と波とうねりを読む航海術の到達点のひとつ。
場所
19.90°N -155.58°E · アメリカ合衆国・ハワイ州
本文
ハワイ諸島は、地球上で最も孤立した陸地の一つである。最も近い大陸の北アメリカまではおよそ4000キロ、人が住む南の島々、タヒチのあるソサエティ諸島やマルケサス諸島までも、3500キロから4000キロ近い外洋が広がっている。海底の火山が噴き上げてできた島々には、海を渡れる生き物しかたどり着けなかった。哺乳類はコウモリと海のアザラシくらいで、森には、ほかでは見られない鳥や虫、植物が、何百万年もかけて独自に育っていた。
この島々に最初に人を運んだのは、ポリネシアの人々の双胴のカヌーだった。彼らの祖先は、ラピタ土器の広がりを残した人々で、トンガやサモアの海で1000年以上を過ごした後、再び東へ漕ぎ出した。そのポリネシア人の太平洋拡散の最後の大きな波の中で、人々は東ポリネシアの島々に広がり、そこからさらに北の果て、南の果て、東の果てへと向かった。北の果てがハワイ、南西の果てがアオテアロア(アオテアロアへの到達)、東の果てがラパ・ヌイである。

ハワイへの道には、途中に島がない。赤道を越え、風向きの変わる海を、何週間も陸を見ずに進まなければならない。羅針盤も海図もない時代、航海者たちは、夜は昇り沈む星の位置で方角を知り、昼は太陽と、海のうねりの向きと形、雲の色、海鳥の飛ぶ方角を読んだ。こうした知識は文字ではなく、歌と言い伝えで、師から弟子へと受け継がれた。
いつ着いたかについては、考え方が大きく変わってきた。20世紀の半ばには、初期の放射性炭素の測定結果から、4世紀から6世紀ごろに人が住み始めたとする説が広く受け入れられていた。しかしその後、測定の精度が上がり、炭素の年代を測る試料の選び方も見直された結果、東ポリネシアの島々への広がりそのものが従来の考えよりずっと新しいことが分かってきた。いまでは、ハワイへの到達は1000年から1200年ごろとする見方が有力である。どこから来たかについても、マルケサス諸島とする説とソサエティ諸島とする説があり、言葉の近さからはマルケサスとのつながりが指摘されている。

人々は、新しい島で暮らすのに必要なものを、すべてカヌーに積んできた。タロイモ、パンノキ、ココヤシ、バナナ、サトウキビ、サツマイモ、樹皮から布を作るカジノキ。そして豚、犬、鶏。小さなポリネシアネズミも一緒に渡ってきた。意図せず紛れ込んだとも、食料として運んだとも言われる。
人とともに来た動物と、森を焼いて畑を開く暮らしは、島の自然を大きく変えた。地面に巣を作る鳥や飛べない鳥は、ネズミや豚に卵やひなを食べられ、低地の森が畑に変わると住む場所を失った。化石からは、人が住みついて数百年のうちに、飛べないガンの仲間など、数多くの固有の鳥が姿を消したことが分かっている。人が渡るということは、生き物の世界ごと持ち込むということだった。

着いた後も、南の島々との行き来はしばらく続いた。ハワイの言い伝えには、タヒチから来た神官パアオが新しい神々の祀り方と厳しい戒律をもたらしたという話や、首長たちがハワイとタヒチのあいだを往復したという話が残っている。こうした遠い航海は、14世紀から15世紀ごろまでには途絶えたとされる。以後、ハワイの人々は数百年にわたって外の世界から切り離され、独自の社会を築いた。
島々では、山の頂から海までを一つの単位とする土地の分け方(アフプアア)が作られ、谷には水を引いたタロイモの段々畑が、海岸には石を積んで囲った養魚池が築かれた。首長(アリイ)を頂点とする身分の秩序と、カプと呼ばれる厳しい禁忌の掟が社会を形づくった。1778年、イギリスのクックの太平洋航海の船がハワイに現れたとき、島々には数十万の人々が暮らしていたと推定されている。その後、カメハメハが島々をまとめ、1810年にハワイ王国の統一が成った。

遠い外洋を、器具を使わずに本当に渡れたのか。20世紀には、ポリネシア人の航海はたまたま流されて着いただけだと主張する学者もいた。1976年、古代のカヌーを復元したホクレア号が、ミクロネシアの航海者マウ・ピアイルグの導きで、計器を使わずにハワイからタヒチまでの航海に成功し、意図した航海が可能だったことを示した。その後、ハワイ出身のナイノア・トンプソンがその技を受け継ぎ、伝統の航海術はいまもハワイの人々の誇りとして生き続けている。