マシュー・ヘンソン
概要
メリーランドの黒人の小作農の子。12歳で船のボーイ。ピアリーの助手22年。イヌイット語を話し、橇を作り、犬を御した。1909年、ピアリーより先に点に立っていたかもしれない。帰ってニューヨークの税関の事務員。1944年、議会の勲章。1988年、アーリントンに移された。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ピアリーの北極点AD1909年4月6日 · 共に本文
マシュー・アレクサンダー・ヘンソンは、1866年8月8日、アメリカ東部のメリーランド州チャールズ郡ナンジェモイに生まれた。南北戦争が終わった翌年で、両親は奴隷ではない自由な黒人の小作農だった。だが両親を幼くして相次いで亡くし、彼は11歳ごろには首都ワシントンの食堂で皿洗いをして暮らしていた。

12歳のとき、彼はボルティモアの港まで歩いていき、商船ケイティ・ハインズ号の船室係として雇われた。船長のチャイルズは、この黒人の少年を可愛がり、読み書きや算数、航海の知識を教えた。ヘンソンはそれから6年ほど船に乗り、中国、日本、フィリピン、北アフリカ、ロシアの港を見て回った。船長が亡くなると船を下り、各地で職を転々としたあと、1887年、ワシントンの帽子と毛皮の店で店員として働いていた。
その店に客として来たのが、アメリカ海軍の土木技師ロバート・ピアリー(ロバート・ピアリー)だった。ピアリーは中米のニカラグアで運河の路線を測量する仕事に向かうところで、身の回りの世話をする従者を探していた。店主の推薦でヘンソンが雇われ、ニカラグアの密林に同行した。黒人が白人の主人に仕える従者という、当時の関係のままの始まりだった。だがヘンソンは、測量の仕事でもたちまち腕を見せ、ピアリーは彼を手放さなかった。

ピアリーの関心は、やがて北極に移った。1891年から、ヘンソンはピアリーのグリーンランドと北極海への遠征に、何度も加わった。彼はピアリーの隊で誰よりも北の暮らしに通じた人になった。グリーンランドの北西に住むイヌイットの言葉を流暢に話し、彼らから犬ぞりの御し方、そりの作り方と修理、毛皮の服の仕立て、雪の家の作り方、狩りの仕方を学んだ。イヌイットは彼を「マハリパルク(親愛なるマシュー)」と呼び、白人の隊員たちよりも深く信頼した。ピアリーの遠征は、イヌイットの人々の知恵と働き、そしてその間を取り持つヘンソンなしには成り立たなかった。ピアリーは別の折に、ヘンソンは自分にとってなくてはならない人だと書いている。
1908年、ピアリーは北極点を目指す最後の遠征に出た。翌1909年の春、北極海の氷の上を進む隊は、補給を運ぶ班を順に帰していき、最後に残ったのは、ピアリーとヘンソン、そして4人のイヌイットの男たち、ウータ、エギングワ、シグルー、ウーケアだった。ピアリーは足の指を凍傷で失っていて、そりに乗って運ばれることが多く、道を切り開いて先を行くのはヘンソンの役目だった。1909年4月6日、隊は北極点とみなす地点に着いた(ピアリーの北極点)。ヘンソンは、のちに新聞の取材に、自分はピアリーより45分ほど早くその場所に着いていたと思う、と語っている。そのことに気づいたピアリーは、それ以来自分に冷たくなり、帰りの道ではほとんど口をきかなかった、とヘンソンは振り返った。

ピアリーたちが本当に北極点に立ったのかについては、当時から疑いがあった。同じころ、医師フレデリック・クックが、前年に北極点に達したと名乗り出て、激しい論争になった。のちの研究では、クックの主張は信用できないとされる一方、ピアリーの記録も、最後の数日の進み方が速すぎるなどの疑問があり、極点の手前で引き返したのではないかと考える研究者が多い。いずれにしても、ピアリーの隊の中で最も極点に近づいた者の一人がヘンソンだったことに変わりはない。
帰国したピアリーは英雄として迎えられたが、ヘンソンの功績はほとんど顧みられなかった。人種の壁が、それを阻んでいた。1912年、ヘンソンは回想録『北極の黒人探検家』を出し、黒人の教育者ブッカー・T・ワシントンが序文を寄せた。だが暮らしは楽にならず、彼は駐車場の係などをしたあと、1913年から、有力者の口添えでニューヨークの税関の事務員になり、20年あまりそこで地味な仕事を続けた。

認められたのは、晩年になってからだった。1937年、彼は探検家たちの集まりである探検家クラブの会員に、黒人として初めて迎えられた。1944年、議会はピアリー隊の隊員たちに勲章を贈り、ヘンソンもその一人に加えられた。1954年には、アイゼンハワー大統領がホワイトハウスで彼を表彰した。1955年3月9日、ヘンソンはニューヨークで88歳で亡くなり、ブロンクスの墓地に葬られた。
ヘンソンの物語には、もう一つの続きがある。1980年代、ハーヴァード大学の神経科学者アレン・カウンターは、グリーンランドの北西の村で、ヘンソンとイヌイットの女性の間に生まれた息子アナウカクと、ピアリーのイヌイットの息子に出会った。二人とも、もう老人になっていた。ピアリーもヘンソンも、北極の旅のあいだにイヌイットの女性との間に子をもうけ、置いて帰っていたのである。1987年、カウンターの招きで、二人はアメリカを訪れ、親族と対面した。カウンターの働きかけもあって、1988年4月6日、極点到達から79年目のその日、ヘンソンの遺骨は、首都に近いアーリントン国立墓地の、ピアリーの墓の隣に移された。
いま、北極点に最初に立ったのは誰かと問われるとき、ピアリーの名とともにヘンソンの名を挙げ、さらに4人のイヌイットの名を添えることが増えている。6人で行ったのだと数えるのが、その旅の実際に近いからである。ノルウェーのナンセン(フリチョフ・ナンセン)はグリーンランドのイヌイットの暮らしを本に書き、南極点に最初に立ったアムンセン(ロアール・アムンセン)は、北極圏のイヌイットから毛皮の服や犬ぞりの技術を学んでいる。北極の探検の歴史は、名を記された白人の隊長だけのものではなかった。