イェルマーク
概要
ヴォルガの盗賊。ストロガノフ家が雇った。840人。1582年、シビル汗国のクチュムを破った。イヴァン雷帝が鎖帷子を贈った。1585年、川岸の夜襲でその鎧を着たまま溺れた。シベリアの英雄。歌になった。トボリスクに記念碑。
関わったできごと(1)
イェルマークのシビル汗国征服AD1582年 · 率いた本文
イェルマークは、16世紀の後半にウラル山脈を越えてシベリアのシビル汗国を攻め、ロシアのシベリア進出の口火を切ったコサックの首領である。正式にはイェルマーク・ティモフェエヴィチと呼ばれる。ロシアでは国の英雄として歌や絵や記念碑になってきたが、彼自身について確かに分かることは多くない。主な史料は、彼の死から数十年以上たってから書かれた複数の年代記で、それぞれ食い違っている。
生年は分からない。ドン川のコサックだったとも、ウラル地方の生まれだったともいう。イェルマークという名も本名ではなく、あだ名だったと考えられている。粉ひきの石臼や、隊の大鍋を意味する言葉から来たという説がある。後の伝えでは、本名をワシーリー・ティモフェエヴィチ・アレーニンとするものもある。
コサックとは、ロシアの南の草原地帯に住み着いた、半ば自立した武装集団である。農奴の身分から逃れた者や流れ者が多く、時には皇帝の軍に加わって戦い、時には川を行き交う船を襲った。イェルマークはヴォルガ川で一団を率いる首領(アタマン)だった。彼らは川を往来する商人や、皇帝の使節の一行まで襲ったため、モスクワから討伐の軍を差し向けられたと伝えられる。

そのイェルマークの一団を雇ったのが、ウラル山脈の西の麓で製塩と毛皮の取引によって大きな財を成していたストロガノフ家である。ストロガノフ家は、皇帝イヴァン4世(雷帝)からカマ川流域の広い土地を与えられ、さらにウラルの東にまで手を伸ばす許しを得ていた。だが山の向こうには、チンギス・ハンの子孫を名乗るクチュムが治めるシビル汗国があり、その配下がストロガノフ家の領地をたびたび襲っていた。年代記によれば、ストロガノフ家はイェルマークの率いる540人のコサックに、自家の兵300人を加え、食料と武器と火薬を与えて送り出した。
1581年か1582年の秋、840人ほどの一隊は、川をさかのぼって船を引き、ウラルの峠を越えて、シベリアの川を下った。1582年10月、イルティシ川のほとりでクチュムの軍と戦った。数で大きく劣るコサックが頼りにしたのは、相手が持たない火縄銃だった。クチュムの軍は崩れ、クチュムは南の草原へ逃れた。10月26日、イェルマークはシビル汗国の都イスケル(カシュリクとも呼ばれる)に入った(イェルマークのシビル汗国征服)。周りの部族の長たちが、毛皮の貢ぎ物を持って服属を誓いに来た。

イェルマークは部下のイヴァン・コリツォをモスクワへ送り、シベリアを皇帝に献じると申し出た。その少し前、イヴァン4世は、ストロガノフ家が勝手に兵を山の向こうへ送り、その間に自分の領地を守らなかったことに怒って、一隊を呼び戻すよう命じる書状を出していた。だが、シビル汗国の都を落としたという知らせが届くと、皇帝は一転して喜び、イェルマークたちの過去の罪を赦した。皇帝は褒美として、自分の肩から外した毛皮の外套や銀の杯、二領の鎧を贈り、援軍も送ったという。
だが、遠いシベリアで少人数の部隊を支えるのは難しかった。モスクワからの援軍は最初の冬に飢えと寒さで多くが倒れ、コサックの数も減っていった。南へ逃れたクチュムは、なお周囲の部族を動かして反撃の機会をうかがっていた。
1585年8月、ブハラから来る商人の一行を迎えるという知らせを受けて、イェルマークは少数の部下とともにイルティシ川をさかのぼった。支流のヴァガイ川との合流点の近くで野営した夜、激しい雨が降り、見張りも眠り込んだ。そこをクチュムの兵が襲った。イェルマークは船へ逃れようとして川に落ち、身につけていた重い鎧のために浮かび上がれずに溺れた、と年代記は伝える。皇帝から贈られた鎧だったとも言われる。
イェルマークの遺体は数日後、タタール人の漁師に見つかったという。タタール人たちが遺体に矢を射かけると新しい血が流れ出し、彼らはその力を恐れて遺体を手厚く葬ったという話が伝わっている。墓の場所は分かっていない。
イェルマークの死後、コサックはいったんシベリアから退いた。だがモスクワはすぐに軍を送り直し、1587年にはイルティシ川のほとりにトボリスクの町を築いた。ロシアはその後、毛皮を求めて東へ東へと進み、半世紀ほどで太平洋のオホーツク海の岸に達した。17世紀の末には清とネルチンスク条約を結び、18世紀にはヴィトゥス・ベーリングがアジアとアメリカの間の海峡を確かめている(ベーリングの海峡)。

イェルマークの物語は、17世紀末のシベリアの年代記に挿絵とともに描かれ、民衆の歌の中で語り継がれた。1821年には、のちにデカブリストの乱で処刑される詩人ルイレーエフが、その死を詠んだ詩を書き、この詩は曲をつけられて広く歌われた。1895年には画家スリコフが、銃を撃つコサックと矢を放つシビルの兵がぶつかる大作を描いた。1899年に造られたロシアの大型砕氷船にも、彼の名がつけられた。一方、征服された側のシベリアのタタールや先住の人々にとって、彼は侵略の始まりを告げた人物でもある。