エベレスト初登頂
概要
ニュージーランドの養蜂家とネパールのシェルパが、午前11時30分、15分いた。「どちらが先に足を置いたか」を二人は答えなかった。知らせは6月2日、エリザベスの戴冠式の朝に着いた。マロリーとアーヴィンが1924年に着いていたかは、いまも分からない。
場所
27.99°N 86.93°E · ネパール・中国
関わった人(2)
エドモンド・ヒラリーAD1919年7月20日–AD2008年1月11日 · 登ったテンジン・ノルゲイAD1914年–AD1986年5月9日 · 登った本文
1852年ごろ、インド測量局は、ヒマラヤの「ピーク15」と呼んでいた山が世界で最も高いことを計算で突き止めた。高さは8840メートルとされた。1865年、測量局は前の局長ジョージ・エヴェレストの名をこの山に付けた。本人は、土地の人が発音しにくいとして反対していたという。チベットでは古くからチョモランマと呼ばれ、ネパールはのちにサガルマータという名を定めた。
ネパールは外国人を入れず、登山隊はチベット側の北から挑んだ。1921年の偵察にはジョージ・マロリーが加わり、1922年には酸素を使った隊が8320メートルまで達した。なぜ登るのかと問われて、そこにあるからだ、とマロリーが答えたという話はこの頃のものである。1924年6月8日、マロリーとアンドリュー・アーヴィンは頂上を目指した。後に続いた隊員オデルは午後12時50分、雲の切れ間に、稜線を登る二つの点を見た。二人は帰らなかった。

1933年にアーヴィンのものとされるピッケルが、1999年には8155メートルの斜面でマロリーの遺体が見つかった。頂上に置くと言っていた妻の写真は、持ち物から見つからなかった。二人が持っていたはずのカメラは、いまも見つかっていない。2024年には、アーヴィンの名を縫いつけた靴下と靴に入った足が見つかった。二人が頂上に立ったかどうかは分からない。多くの登山家は着いていないと考え、また、着いても生きて降りられなければ登頂とは言えない、とも言う。
1950年、ネパールが国を開き、南からの道が開けた。1951年、エリック・シプトンの偵察隊が南側の氷河を調べ、そこには若いニュージーランドの養蜂家エドモンド・ヒラリーが加わっていた。1952年にはスイスの隊が挑み、シェルパのテンジン・ノルゲイとレイモン・ランベールが8595メートルまで登った。テンジンにとって、エベレストへの遠征は1953年が7度目になる。

1953年、ジョン・ハント大佐が率いるイギリスの隊は、数百人の荷運びの人々とともに、大がかりな階段のように野営地を上へ延ばした。5月26日、第一の組のエヴァンズとブルディロンが南峰まで達したが、酸素の器具の故障と時間の不足で引き返した。5月28日、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイは、8500メートルの岩棚に小さなテントを張って夜を過ごした。
5月29日の朝6時30分、二人は出発した。南峰を越えた先に、高さ12メートルほどの岩の段があった。ヒラリーは岩と雪の庇の間の割れ目に体をねじ込んで登り、のちに「ヒラリー・ステップ」と呼ばれる。午前11時30分、二人は頂上に立った。とどまったのは15分ほどだった。テンジンはチョコレートと菓子を雪に埋めて神々への供え物とし、ヒラリーはハントから預かった小さな十字架を置いた。ヒラリーは、ピッケルを掲げるテンジンを写真に撮った。ピッケルには国連、イギリス、ネパール、インドの旗が結んであった。テンジンはカメラを扱ったことがなく、頂上のヒラリーの写真は無い。

降りてきたヒラリーは、迎えに来た仲間のジョージ・ロウに「やっつけたぞ」と言った。隊に同行した新聞『タイムズ』の記者ジェームズ・モリスは、他紙に抜かれないよう、雪の状態が悪いという暗号の電報で成功を伝えた。知らせがロンドンに届いたのは6月2日、エリザベス2世の戴冠式の朝だった(同じ日の街の様子はサローテ女王とロンドンの雨)。新聞は、女王への贈り物だと書いた。ヒラリーとハントにはナイトの位が、テンジンにはジョージ勲章が贈られた。
どちらが先に頂上に足を置いたのか。ネパールとインドでは、テンジンが先だと言われ、二人は長く、一緒に着いたとだけ答えた。1955年の自伝で、テンジンは、ヒラリーが先で自分はすぐ後ろだったと書いている。その後ヒラリーは南極点にも陸路で達し(アムンセンの南極点から半世紀後)、シェルパの村々に学校や病院を建てる活動に生涯を費やした。テンジンはインドのダージリンで登山学校の指導者となった。1990年にヒラリーの息子ピーターが、1996年にテンジンの息子ジャムリンが、それぞれ父の登った山の頂に立った。

いまエベレストには、毎年数百人が頂上に立つ。2019年には、頂上の手前の稜線に登山者が列を作って順番を待つ写真が世界に流れた。二人が15分だけ独り占めした場所は、案内人と酸素を買えば行ける場所になった。それでも、そこへ向かう道の多くはシェルパの人々の肩に支えられていることは、1953年と変わっていない。