できごと

バートンとスピークのタンガニーカ湖

Burton and Speke reach Lake Tanganyika
AD1858年2月13日
重要度 4
大英帝国オスマン帝国マラーター同盟ポルトガル帝国フラニ帝国(ソコト)Nejdエチオピア帝国KaartaLoziソマリアモシ諸王国ポルトガル領東アフリカルワンダブルンジZanzibarアシャンティ王国オランダ領東インドブニョロ王国Kazembeメリナ王国(拡大期)ズールー王国カネム=ボルヌアシャンティ王国ズールー王国ブガンダ王国NkoreオマーンイエメンアンゴラXhosaAD1858年2月13日タンガニーカ湖
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1858年2月13日の版図を描いています(30勢力)。

概要

ナイルの源を探して。二人とも病気で、バートンは歩けず、スピークは目が見えなかった。帰りにスピークが一人で北へ行き、ヴィクトリア湖を見て「これがナイルの源」。バートンは認めなかった。1864年、討論の前日、スピークが猟銃で死んだ。事故か自殺か。

場所

タンガニーカ湖
-6.00°N 29.50°E · タンザニア

関わった人(2)

リチャード・バートンAD1821年3月19日–AD1890年10月20日 · 歩けなかったジョン・ハニング・スピークAD1827年5月4日–AD1864年9月15日 · 目が見えなかった

本文

ナイル川はどこから流れてくるのか。古代から、地理学者たちはこの問いに答えられずにいた。2世紀のプトレマイオスは、アフリカの奥の「月の山」から流れ出ると書いた。19世紀の半ば、ヨーロッパの地図のアフリカの内陸はまだ白いままで、ナイルの源はロンドンの王立地理学会がもっとも見つけたがっていた謎だった。1856年、学会は二人の軍人を送ることにした。リチャード・バートンとジョン・ハニング・スピークである。

二人は前にも一緒に旅をしていた。1855年、ソマリアのベルベラで野営を襲われ、バートンは投げ槍で両頬を貫かれ、スピークは何か所も刺されながら逃げ延びた。バートンは十数か国語を操り、変装してメッカへの巡礼に紛れ込んだこともある学者肌の冒険家だった。スピークは狩りを好み、測量に長けた実際的な軍人だった。気質の違う二人だった。

ジョン・ハニング・スピーク
ジョン・ハニング・スピークWikimedia Commons S. Hollyer; Southwell Brothers · Public domain

1857年6月、一行は東アフリカの海岸、ザンジバル(ザンジバルの丁子と奴隷市場)の対岸から内陸へ出発した。たどったのは、象牙と奴隷を運ぶアラブ人やスワヒリ人の隊商の道である。荷担ぎに逃げられ、荷を盗まれ、二人とも熱病に倒れた。11月、隊商の中継地タボラ(カゼ)に着くころには、バートンは足が麻痺して担がれて進み、スピークは目の病でほとんど何も見えなくなっていた。

1858年2月13日、一行は丘の上から大きな湖を見た。タンガニーカ湖である。目の見えないスピークにはそれが見えず、バートンは、光る水と青い山並みの景色を、のちに旅行記で感嘆をこめて描いた。二人は湖の岸の町ウジジに入り、舟を借りて湖の北の端を目指した。北の端から川が流れ出していれば、それがナイルかもしれない。スピークはこのころ、耳に入り込んだ甲虫をナイフで取ろうとして耳を傷めている。北の端までは行き着けなかったが、土地の人の話では、北のルジジ川は湖へ流れ込んでいるということだった。湖から流れ出る川でなければ、ナイルではない。

ジョン・ハニング・スピークの肖像
ジョン・ハニング・スピークの肖像Wikimedia Commons Southwell Brothers · Public domain

帰り道、タボラで休むあいだに、スピークはアラブの商人から、北にもっと大きな湖があると聞いた。病の重いバートンを残して、スピークは一人で北へ向かった。1858年8月3日、彼はいまのタンザニアのムワンザの近くで、水平線まで続く湖を見た。彼はそれを女王の名をとってヴィクトリア湖と名づけ、これがナイルの源だと信じて疑わなかった。だが彼が見たのは湖の南の端だけで、湖の大きさも、そこから川が流れ出しているかどうかも確かめていなかった。タボラに戻ってそれを告げると、バートンは証拠がないと取り合わなかった。

二人の仲はここで壊れた。1859年、海岸からの帰国の途中、スピークは先にロンドンへ戻り、バートンの到着を待たずに学会で自分の発見を発表した。待つと約束していた、とバートンは後々まで恨んだ。学会は次の遠征の隊長にスピークを選んだ。1862年7月28日、スピークは仲間のグラントとともに、ヴィクトリア湖の北岸からナイルが滝となって流れ出すところにたどり着き、リポン滝と名づけた。ただし、そこから川をずっと下って確かめたわけではなく、途中は川を離れて歩いた。翌年、スーダン南部のゴンドコロに出た彼は、本国へ「ナイルの問題は解決した」と打電した。

ブガンダの王太后にグラントを紹介するスピーク
ブガンダの王太后にグラントを紹介するスピークWikimedia Commons Josiah Wood Whymper / After Johann Baptist Zwecker · Public domain

疑う人は残った。バートンはナイルの源はタンガニーカ湖だという考えを捨てず、二人は1864年9月16日、イングランドのバースで開かれる英国科学振興協会の大会で公開の討論をすることになった。その前日の9月15日、スピークは親族の領地で狩りをしていて、石垣を越えようとしたときに自分の猟銃が暴発し、胸を撃たれて死んだ。37歳だった。検死では事故死とされたが、討論を前に自ら命を絶ったのではないかという噂はすぐに広まり、いまも決着がついていない。バートンは知らせを聞いて取り乱して泣いた、と伝えられる。

決着をつけたのは、後から来た探検家たちだった。スピークの死後、デイヴィッド・リヴィングストンもナイルの源を探して湖の地方をさまよい(スタンリー、リヴィングストンに会う)、1874年にはキャメロンがタンガニーカ湖から流れ出す川を見つけ、それがコンゴ川の水系に通じることを示した。1875年から76年にかけてヘンリー・モートン・スタンリーがヴィクトリア湖とタンガニーカ湖をそれぞれ舟で一周し、ナイルの源はヴィクトリア湖だというスピークの考えがおおむね正しかったことが確かめられた。

1956年のリチャード・バートン
リチャード・バートンWikimedia Commons 20th Century Fox · Public domain

正しかったのはスピークだったが、確かめ方が正しかったのはバートンのほうだった、という評がある。ヴィクトリア湖にはさらに流れ込む川があり、どこを「源」と呼ぶかは、いまも定義の問題として残っている。湖の名にイギリス女王の名がついたことは、ヨーロッパがアフリカの地名を書き換えていく始まりの一つでもあった。土地の人々は、湖をそれぞれの言葉の名で呼んでいた。

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