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Event / できごと

バウンティ号の反乱

Mutiny on the Bounty
AD1789年4月28日
重要度 3
スペイン帝国AD1789年4月28日トンガ(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1789年4月28日の版図を描いています(1勢力)。

概要

1789年4月28日、パンノキの苗をタヒチから西インド諸島へ運んでいたイギリス海軍の船バウンティ号で、航海士のフレッチャー・クリスチャンらが反乱を起こし、艦長のブライと従う18人を小舟に下ろした。ブライは海図も無いまま六千キロ以上を漕ぎ渡り、ティモールにたどり着く。反乱者たちはタヒチの男女を連れて、海図の位置が誤っていた無人のピトケアン島に隠れ、船を焼いた。島は殺し合いの末に男が一人になるまで荒れたが、その子孫はいまも島に住んでいる。

場所

トンガ位置は特定されていない(誤差 ±60km)
-21.18°N -175.20°E · トンガ王国

本文

パンノキは、焼くとパンのような味のする実をつける南の島の木である。西インド諸島の砂糖農園の主たちは、奴隷の安い食べ物にしようと考え、タヒチから苗を運ぶよう国王に願い出た。1787年、その任を受けたのが、クックの航海で航海長を務めたウィリアム・ブライの船バウンティ号だった。

船はタヒチに五か月とどまって苗を集めた。そのあいだに船員たちは島の暮らしに馴染み、島の女性と結ばれた者もいた。出港すると、ブライの厳しい叱責と罰が船員たちを苛立たせた。1789年4月28日の明け方、トンガのトフア島の近くで、航海士のフレッチャー・クリスチャンらが反乱を起こし、ブライと彼に従う18人を小さな舟に乗せて海に下ろした。

ブライの舟には、磁石と四分儀と数日分の食べ物しかなかった。途中の島で一人を殺されながらも、彼は47日かけて六千キロ以上を漕ぎ、オランダ領のティモールにたどり着く。海の上の航海の腕前としては、並ぶもののない記録とされる。

反乱者たちはタヒチに戻り、一部は島に残って、のちに捕らえられて裁かれた。クリスチャンら9人は、タヒチの男女19人とともに、海図の位置が誤っていた無人のピトケアン島へ隠れ、見つからないよう船を焼いた。島ではまもなく殺し合いが起き、1800年には男は一人しか残っていなかった。1808年にアメリカの捕鯨船がこの島を見つけたとき、その男と女性たちと子どもたちが暮らしていた。ピトケアン島にはいまも、その子孫が数十人住んでいる。

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