人物

ジェームズ・クック

James Cook
AD1728年11月7日 – AD1779年2月14日(享年50)
イギリス重要度 4

概要

三度の航海で太平洋の地図をほぼ完成させた。ハワイで現地の人々と衝突して死ぬ。

関わったできごと(1)

クックの太平洋航海1768年 · 当人

本文

ジェームズ・クックは1728年11月7日、イングランド北東部ヨークシャーの村マートンで、スコットランド出身の農業労働者の子として生まれた。父が働く農場の主人の援助で、村の学校に通い、読み書きと算数を学んだ。17歳で海辺の村の雑貨店の店員になったが、窓の外の海に惹かれ、翌年、港町ウィットビーの船主に徒弟として入った。北海で石炭を運ぶ、底の平らな頑丈な船で、彼は航海術と数学を身につけた。のちに探検に使う船も、この種の石炭運搬船を改造したものである。

ジェームズ・クック船長の肖像
ジェームズ・クック船長の肖像Wikimedia Commons Nathaniel Dance-Holland · Public domain

腕を認められ、船長への昇進を目前にしていた1755年、26歳のクックはそれを断って、海軍に一水兵として入った。昇進の道が開けていたのは海軍のほうだった。七年戦争が始まると、北米に送られた。1759年、英軍がフランス領カナダのケベックを攻めたとき、クックはセントローレンス川の浅瀬を測量して海図を作り、艦隊を川の奥まで導いた。戦後はニューファンドランド島の沿岸の測量を任され、その精密な海図は長く使われた。1766年には日食を観測して、その報告が王立協会の目にとまった。

1768年、王立協会と海軍は、翌年に起きる金星の太陽面通過を南太平洋で観測する計画を立て、その指揮官に、40歳の無名の測量士官クックを選んだ(クックの太平洋航海)。金星が太陽の前を横切る時刻を地球上の離れた地点で測れば、地球と太陽の距離が計算できる。クックは改造した石炭船エンデバー号でタヒチへ渡り、1769年6月3日に観測を行った。だが彼はもう一つ、封をした秘密の指令を携えていた。南の海にあると信じられていた巨大な南方大陸を探せ、というものである。

クックらの測量に基づく1775年のニューファンドランド海図
クックらの測量に基づく1775年のニューファンドランド海図Wikimedia Commons Michael Lane and James Cook · Public domain

クックは南へ下って大陸を探し、見つからないと西へ向かってニュージーランドを一周し、二つの島から成ることを確かめて地図に描いた。1642年にオランダのタスマンが一部の海岸を見てから、誰も確かめていなかった土地である(タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達)。さらに西へ進み、1770年4月、ヨーロッパ人として初めてオーストラリアの東海岸に達した。上陸した湾は、同行した博物学者ジョゼフ・バンクスが多くの新しい植物を採集したことから、ボタニー湾と名づけられた。18年後、英国はここに流刑植民地を開くことになる(第一船団のボタニー湾到着)。帰路、グレートバリアリーフで座礁し、船を浜に引き揚げて修理した。オーストラリアの先住民とは、この旅でも衝突があった。

1772年からの2回目の航海で、クックは南方大陸の問題に決着をつけた。レゾリューション号で南の高緯度を東へ一周し、1773年1月、記録の上で初めて南極圏に入った。翌年には南緯71度を超え、氷に阻まれて引き返した。人が住める大陸が南に広がっているという、古代以来の想像は誤りだった。この航海では、新しい時計(クロノメーター)を使って、海の上で経度を正確に測れることも確かめた。船乗りの宿痾だった壊血病を、酢漬けのキャベツや新鮮な食物を食べさせて抑え、壊血病で死んだ乗組員はほとんど出なかった。この功績で、彼は王立協会から賞を受けた。

1776年、クックは3回目の航海に出た。目的は、北米大陸の北を回って太平洋と大西洋を結ぶ北西航路を探すことだった。途中、1778年1月にハワイ諸島に達した。ヨーロッパ人がハワイに来たことを示す、確かな記録としては最初である(ハワイへの到達)。クックは北米の西海岸を北上し、ベーリング海峡を越えたが、北緯70度を過ぎたところで氷の壁に阻まれ、冬を越すためにハワイへ戻った。

ハワイへの到達に関わる図版:Na mokupuni o Hawaii nei LOC 98680907
ハワイへの到達Wikimedia Commons Kalama, Simona P.; Lahainaluna Seminary · Public domain

1779年1月、ハワイ島のケアラケクア湾に入ったクックの一行を、島の人々は大歓迎した。ちょうど豊穣の神ロノを祭る季節にあたり、クックがロノとして迎えられたのだという説がある。ただし、これはヨーロッパ人の見方を島の人々に押しつけた解釈だとする反論もあり、人類学者の間で大きな論争になった。2月4日に一行は出港したが、嵐で前のマストが折れ、11日に同じ湾に戻ってきた。今度の迎え方は冷たく、物を盗まれる騒ぎが相次いだ。

2月13日の夜、船のボートが盗まれた。翌14日の朝、クックは兵を連れて上陸し、ボートが戻るまでの人質として、島の首長カラニオプウを船へ連れて行こうとした。浜に集まった群衆との間で緊張が高まり、銃が撃たれ、乱闘になった。クックは浜で刺されて死んだ。50歳だった。遺体は島の人々に持ち去られ、のちに一部が返されて海に葬られた。

「マタバイ湾の眺め」(この絵を描いたウィリアム・ホッジスは博物画家として第2回航海に参加した。)
「マタバイ湾の眺め」(この絵を描いたウィリアム・ホッジスは博物画家として第2回航海に参加した。)Wikimedia Commons William Hodges · Public domain

クックの3度の航海で、太平洋の地図の空白はほとんど埋まった。正確な測量と、乗組員の健康を守る規律は、のちの探検の手本になった。一方で、その航海は太平洋の島々に、天然痘や性病などの病気と、のちの植民地化をもたらす入口にもなった。オーストラリアやニュージーランド、ハワイの先住民の間では、クックは発見者ではなく侵入の始まりとして記憶されてもいる。

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