リチャード・バートン
概要
29の言語。アフガン人に変装してメッカに入った。ハラルに入った。タンガニーカ湖。『千夜一夜』と『カーマ・スートラ』を訳した。トリエステの領事。妻イザベルが死後、原稿を焼いた。「頬に槍の傷」。
関わったできごと(1)
バートンとスピークのタンガニーカ湖AD1858年2月13日 · 歩けなかった本文
リチャード・フランシス・バートンは1821年3月19日、イングランド南西部のトーキーに生まれた。父は退役した陸軍の軍人で、イングランドの湿った気候を嫌い、一家はフランスやイタリアの町を転々とした。少年バートンは学校に落ち着くことなく、行く先々の言葉を、上品なものも下品なものも覚えた。自分はイングランドに居場所のない人間だという感覚は、ここに根を持つ。

1840年、オックスフォード大学のトリニティ・カレッジに入ったが、なじめなかった。禁じられた競馬見物にわざと出かけ、1842年に放校された。望みどおり、東インド会社の軍の士官としてインドへ渡った。
インドでの7年間、バートンは言葉に打ち込んだ。ヒンドゥスターニー語、グジャラート語、マラーティー語、ペルシア語、アラビア語、シンド語。上官のネイピア将軍のもとでシンド地方の調査に当たり、ペルシア人の商人「ミルザ・アブドゥッラー」に化けて市場や宿にもぐり込み、土地の人々の暮らしを探った。将軍の命で、カラチの男娼の館についての報告書も書いた。この報告は後に軍の中で彼の評判を傷つけたとされる。病を得てイギリスに戻ったのは1849年だった。

1853年、バートンはイギリス王立地理学協会の後ろ盾を得て、イスラームの聖地メッカへの巡礼に向かった。非ムスリムが入れば命の危険がある町である。インド育ちのアフガン人の医者と称し、カイロで準備を整え、巡礼の一行に加わってメディナとメッカに入った。カアバを間近に見て、こっそり寸法を測り、記録を取った。彼より前にもメッカに入ったヨーロッパ人はいたが、『メディナとメッカへの巡礼記』は、旅の細部と巡礼の儀式、アラブの人々の暮らしを生き生きと描き、彼の名を一躍有名にした。
翌1855年の初め、東アフリカのソマリランドから、内陸の城壁都市ハラルに入った(ハラールの城壁都市)。ヨーロッパ人が入って生きて帰った例は無いと言われていた町で、バートンは自分の名を明かして首長に会い、10日ほど留まって戻った。同じ年の4月、ソマリ海岸のベルベラで野営中に襲われ、投げ槍が左の頬から右の頬へ突き抜けた。この傷跡は生涯、顔に残り、彼の肖像写真の特徴になった。一緒にいた若い士官ジョン・スピークも深い傷を負った。
その後、クリミア戦争に従軍したが、目立つ活躍の場は無かった。1857年、バートンはスピークとともに東アフリカの内陸へ向かった。目的は、何千年も謎だったナイル川の源を探すことである。熱病に苦しみながら、二人は1858年2月、ヨーロッパ人として初めてタンガニーカ湖のほとりに立った(バートンとスピークのタンガニーカ湖)。帰り道、バートンが病で動けずにいる間に、スピークは一人で北へ向かい、巨大な湖を見つけてヴィクトリア湖と名付け、これこそナイルの源だと確信した。

バートンは裏付けが足りないと退けた。二人は激しく対立し、スピークは先に帰国して手柄を発表した(ジョン・ハニング・スピーク)。1864年、二人が公開の場で論争することになっていた前日、スピークは狩りの最中に自分の銃で死んだ。事故とも自殺とも言われる。ナイルの源がヴィクトリア湖であることは、のちにスタンリーらの探検で確かめられた(ヘンリー・モートン・スタンリー)。結果だけを見れば、正しかったのはスピークだった。
1860年、バートンはアメリカに渡り、西部のソルトレイクシティでモルモン教徒の町を見聞して本にまとめた(モルモン教の始まり)。1861年、名門のカトリックの家の娘イザベル・アランデルと結婚した。彼女の母が反対し、二人はおよそ10年待って、ひそかに式を挙げた。イザベルは夫を崇拝し、生涯その旅と仕事を支えた。

外務省は、バートンを探検家ではなく領事として使った。西アフリカのフェルナンド・ポー島、ブラジルのサントス、シリアのダマスクス、そして1872年からはアドリア海の港町トリエステ。どれも出世の道からは外れた任地だった。そのかたわら、彼は西アフリカのダホメ王国への使節を務め、ブラジルの奥地を旅し、本を書き続けた。生涯に出した著書と翻訳は数十冊に及ぶ。
晩年のバートンが力を注いだのは、東方の書物の翻訳である。1883年、友人アーバスノットらと組んで、インドの性愛の古典『カーマ・スートラ』を英語に訳した。当時のイギリスではわいせつ物として罰せられるおそれがあったため、架空の協会の名で会員向けに私家版として出した。1885年から1888年にかけては『千夜一夜物語』を全10巻に補遺6巻を加えて出した。原典の性の描写を和らげずに訳し、アラブの風俗や性の習俗についての長大な注を付けた。予約者だけに配る形で、思いがけず大きな利益をもたらした。1886年にはナイトの位を受けた。

1890年10月20日、トリエステで心臓の発作のため死んだ。69歳。イザベルは、夫が死の間際にカトリックに帰依したとして終油の秘跡を受けさせた。そしてその後、夫が最後の仕事として取り組んでいたアラビアの性愛の書『香りの園』の新しい訳稿を、彼の魂のために焼いた。日記の多くも焼かれたとされる。研究者たちは、この炎で失われたものを今も惜しんでいる。
遺体はロンドン郊外のモートレイクに葬られた。墓はイザベルの考えで、砂漠の民ベドウィンの天幕の形に石で作られた。バートンは20以上の言葉を操ったとされ、その数は方言を含めて数え方によって違う。詩人スウィンバーンは彼の親友だった。好奇心のおもむくまま、禁じられた町へ入り、禁じられた本を訳したこの男は、ヴィクトリア時代のイギリスにとって、手柄を誇るべき英雄であると同時に、扱いに困る異端者でもあった。