できごと

バルボアの太平洋到達

Balboa sights the Pacific
AD1513年9月25日
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1513年9月25日の版図を描いています(19勢力)。

概要

借金取りから逃げて樽に隠れて船に乗った男が、パナマの地峡を190人で25日かけて越え、丘の上から南の海を見た。海に入って剣を掲げ、スペイン王のものだと宣言した。6年後、その総督に斬られた。

場所

ダリエン
8.40°N -77.80°E · パナマ

関わった人(1)

バルボアAD1475年頃–AD1519年1月 · 探検者

本文

バルボア(ヴァスコ・ヌニェス・デ・バルボア)は1475年ごろ、スペイン西部エストレマドゥーラ地方の貧しい郷士の家に生まれた。コロンブスの到達から8年後の1500年ごろ、南アメリカ北岸を探る船団に加わって新大陸へ渡り、カリブ海のイスパニョーラ島に落ち着いて農場を営んだ。だが商売はうまくいかず、借金がかさんだ。島を出ることは債権者に禁じられていた。

1510年、本土の入植地へ物資を運ぶ船が島を出た。バルボアは食糧の樽に隠れて、飼い犬とともに船に潜り込んだ。海の上で見つかると、船を率いる法律家のエンシソは怒って無人島に置き去りにしようとしたが、思いとどまった。バルボアは以前の航海でこのあたりの海岸を見ており、その知識が役に立ったからである。着いた入植地は先住民の毒矢に悩まされて崩れかけていた。バルボアは、湾の向こう岸のダリエンには毒矢を使わない人びとが住んでいると教え、一行はそこに移って、サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンという町を築いた。アメリカ大陸の本土で長続きした、スペイン人の最初の町の一つである。

南の海(太平洋)の領有を宣言するバルボア(19世紀の銅版画)
南の海(太平洋)の領有を宣言するバルボア(19世紀の銅版画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

バルボアは仲間の支持を集め、エンシソを追い出して、入植地の頭になった。周りの先住民の首長たちとは、戦って従わせる一方で、同盟も結んだ。ある首長の娘を妻同然に迎えたとも伝えられる。金を欲しがるスペイン人を見て、別の首長の息子が、山の向こうに別の海があり、そのほとりには金をふんだんに持つ国がある、と語った。のちのインカの国のことと考えられている。

1513年9月1日、バルボアは190人のスペイン人と、荷を運び道を案内する数百人の先住民を連れて出発した。猛犬たちも連れていた。バルボアの犬レオンシコは手柄を立て、兵士と同じように分け前を受け取ったと記録されている。一行は湿った密林と険しい山を、途中の村々と戦いながら進んだ。抵抗した村の人びとは殺され、犬に襲わせた例も記録に残る。9月25日(27日とする記録もある)、バルボアは頂の近くで一行を待たせ、ひとりで丘に登った。目の前に、南へ広がる海が見えた。彼はそれを「南の海」と名づけた。

アメリカ大陸の古地図
アメリカ大陸の古地図Wikimedia Commons Public domain

数日後の9月29日、一行は海の入り江に着いた。バルボアは鎧を着け、剣とカスティーリャの旗を手に、膝まで海に入った。そしてこの海と、その岸に連なるすべての土地を、カスティーリャの王のものとすると宣言した。もちろん、そこに住む人びとには何の相談もない。南の海はのちに、7年後に南アメリカの南端を回ってここを渡ったマゼランによって「太平洋」と呼ばれることになる(マゼランの太平洋横断)。バルボアは真珠と金を集めて、翌年1月に町へ戻った。

だが本国では、追い出されたエンシソが王にバルボアを訴えていた。王は新しい総督として老練な貴族ペドラリアス・ダビラを任じ、1514年、1500人を超える入植者とともに送り込んだ。バルボアの発見の知らせが届くと、王は彼を南の海の総督に任じたが、ペドラリアスの下に置いた。二人の対立を和らげようと、ペドラリアスは娘をバルボアと婚約させた。バルボアは、南の海を探るために、船の材料を山越えで運び、太平洋の岸で組み立てる難事業に取り組んだ。

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの肖像(作者不詳)
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアの肖像(作者不詳)Wikimedia Commons Anonymous ( Spain ) Unknown author after a 18th-century engraving · Public domain

その力を恐れたペドラリアスは、1518年の暮れ、バルボアを呼び戻して捕らえさせた。逮捕に向かったのは、かつてバルボアとともに南の海を見た部下、フランシスコ・ピサロだったとされる(フランシスコ・ピサロ)。バルボアは反逆の罪で裁かれ、1519年1月、アクラの町で仲間4人とともに首をはねられた。40代の半ばだった。遺体の行方は分かっていない。

バルボアの死から十数年後、彼が聞いた南の金の国を征服したのは、逮捕に来たピサロだった(インカ帝国の滅亡)。ダリエンの地峡は、二つの大洋を結ぶ近道として注目され続け、1914年にはパナマ運河の開通に至る。パナマの通貨はいまもバルボアと呼ばれ、アメリカのドルと同じ価値に定められている。

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