玄奘
概要
国禁を犯してインドへ渡り、17年かけて経典を持ち帰った。『西遊記』の三蔵法師の元。
所属
唐関わったできごと(1)
玄奘の西域行629年 · 当人本文
602年頃、洛陽の東南の緱氏県に、陳氏の四男として生まれた。生年は600年とする説もある。俗名は陳褘。家は儒学の家柄だったが、兄の一人が出家して洛陽の寺にいた。少年は兄について寺に通い、経典を学んだ。13歳のとき、朝廷が洛陽で僧を選ぶ試験を行った。年が足りず受験の資格は無かったが、門の外に立っていた少年に目を留めた役人が、出家の志を問うた。仏の教えを遠くは継ぎ、近くは広めたい、と答えた少年は、特別に僧となることを許されたと伝えられる。

隋が倒れ、唐の成立に至る戦乱の中、玄奘は兄とともに長安、成都と移りながら、各地の名僧について学んだ。学べば学ぶほど、疑問が増えた。インドから伝わった経典は、訳された時代も訳者もばらばらで、同じ教えについて師によって説くことが違う。とりわけ、心のはたらきを分析する唯識の教えには矛盾が多かった。玄奘は、原典をインドで直に学び、その根本となる論書を持ち帰るしかないと考えた。
だが唐はできたばかりで、西の突厥との緊張から、民が国境を越えることを禁じていた。出国の願いは許されなかった。629年(627年とする説もある)、玄奘は禁を破って長安を出た。西の果ての涼州で役人に見つかり、帰れと命じられたが、夜に紛れて先へ進んだ。玉門関の先では、烽火台の見張りの目を避けて水を汲まねばならなかった。

その先は、莫賀延磧と呼ばれる砂漠である。『大慈恩寺三蔵法師伝』によれば、玄奘は途中で水袋を落とし、四夜五日、一滴の水も口にしないまま砂の上を進んだ。倒れて動けなくなった五日目の夜、老いた馬が勝手に歩きだし、草地と泉にたどり着いたという。
オアシスの国、高昌の王は熱心な仏教徒で、玄奘を手厚くもてなした。そして、この国に留まって国の師になってほしいと迫った。玄奘は首を縦に振らず、3日間食を断った。王はついに折れ、義兄弟の契りを結んだうえで、旅の資金と衣服、従者、そして途中の国々の王に宛てた24通の紹介状を持たせて送り出した。

玄奘は天山を越え、中央アジアの西突厥の可汗の陣営を経て、ヒンドゥークシュの山々を越えた。途中のバーミヤンでは、岩山に彫られた二体の巨大な仏像を見て、その姿を書き留めている(バーミヤンの大仏)。インドに入ったのは出発から2年ほど後のことだった。
目指したのは、ガンジス川流域のナーランダー僧院だった(ナーランダー僧院の創建)。数千人の僧が学ぶ、当時の仏教世界で最大の学問の場である。玄奘はここで、百歳を超えていたとも伝わる高僧シーラバドラ(戒賢)に師事し、唯識の根本の論書『瑜伽師地論』を学んだ。5年ほどを過ごし、さらにインド各地を巡って聖地を訪ね、各地の学僧と論じ合った。

北インドを統一していたハルシャ王は、玄奘を招いて都の曲女城で大きな集会を開いた(ハルシャ王の北インド統一)。玄奘が自説を掲げて誰でも論破してみよと呼びかけたが、18日間、反論する者は出なかったと伝記は書く。ハルシャ王は玄奘に、はるか東の唐の皇帝のことを尋ねたという。
645年、玄奘は長安に戻った。出発からおよそ16年が過ぎていた(伝統的な数え方で17年)。持ち帰った経典は657部。仏像や仏舎利も携え、都の大路は迎える人々で埋まった。国禁を犯して出たことは、もはや罪に問われなかった。皇帝唐の太宗は洛陽で玄奘を引見し、その知識に驚いて、僧をやめて政治を助けるよう二度にわたって勧めた。玄奘は断り、経典の翻訳に専念したいと願い出た。太宗が求めたのは、旅した国々の地理や風俗の記録だった。こうして弟子に口述して編まれたのが『大唐西域記』で、7世紀の中央アジアとインドを知るための第一級の史料になっている。

玄奘は残りの生涯の20年近くを翻訳に費やした。訳した経典は75部、1300巻あまりにのぼる。持ち帰った経典を納めるために、長安の大慈恩寺に塔が建てられた。いまも西安に立つ大雁塔である。最後の数年は、600巻に及ぶ『大般若経』の翻訳にかかりきりになった。
玄奘の訳は、原文の意味を正確に移すことを重んじ、それまでの訳と区別して「新訳」と呼ばれる。それより前の鳩摩羅什らの訳は「旧訳」と呼ばれるようになった。日本で最も広く読まれている『般若心経』も、玄奘の訳とされるものである。
664年、長安の北の山中の玉華寺で亡くなった。60代前半だった。弟子の窺基は、師の伝えた唯識の教えをもとに法相宗を開いた。日本から入唐した僧の道昭は玄奘に直に学び、帰国してその教えを伝えた。いまの奈良の興福寺や薬師寺は法相宗の寺である。
それから900年あまり後の明の時代、玄奘の旅は小説『西遊記』の題材になった(『西遊記』)。三蔵法師は、孫悟空や猪八戒に守られてようやく旅をする、気弱でお人好しな僧として描かれている。だが本物の玄奘は、国の禁を破り、ひとりで砂漠を越え、王の引き止めを断食ではねのけた、誰よりも意志の強い旅人だった。