ジョン万次郎
概要
土佐の漁師の子。14歳で漂流し、鳥島でアメリカの捕鯨船に拾われ、マサチューセッツで学び、金鉱で稼いで、10年後に帰った。ペリーが来たとき幕府に呼ばれ、アメリカを知る唯一の日本人として通訳し、咸臨丸に乗った。
所属
日本関わったできごと(1)
黒船来航1853年7月8日(嘉永6年6月3日) · 幕府に呼ばれた(交渉の通訳は務めていない)本文
ジョン万次郎、のちの中浜万次郎は、1827年、土佐の中浜村(いまの高知県土佐清水市)の貧しい漁師の家に生まれた。幼い頃に父を亡くし、学校に通うこともなく、少年の頃から働いて家族を支えた。

1841年1月、14歳の万次郎は、土佐の宇佐の浦から、ほかの4人の漁師とともに小舟で漁に出た。舟は嵐に遭って流され、数日の漂流の末、伊豆の南の海に浮かぶ無人島、鳥島に流れ着いた。5人は岩の穴に住み、アホウドリを捕らえ、雨水をためて、143日を生き延びた。
6月、海亀を探しに島に寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が、5人を見つけて救い出した。船長はウィリアム・ホイットフィールド。鎖国の日本へ送り届けることはできず、船は漁を続けたあと、5人をハワイのホノルルで降ろした。だが船長は、利発な万次郎を気に入り、本人の望みを聞いて、アメリカへ連れて帰った。船員たちは船の名にちなんで、彼をジョン・マンと呼んだ。

1843年、万次郎は船長の故郷、マサチューセッツ州のフェアヘイヴンに着いた。捕鯨の港町として栄えた町である。船長の家に住み、学校で英語と数学を学び、のちには航海術と測量を教える学校で学んで、優秀な成績を収めた。桶を作る職人の徒弟としても働いた。船長の通う教会が、肌の色の違う万次郎と同じ席に座ることを拒んだので、船長は別の教会に移った、という話が伝えられている。
1846年、万次郎は捕鯨船に乗り組み、3年あまりの航海に出た。大西洋からインド洋、太平洋を回り、腕を認められて、仲間の選挙で一等航海士に選ばれた。航海の途中、日本の近くの海も通ったが、上陸はできなかった。帰国したいという思いを募らせた万次郎は、1849年、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアの金鉱で働き、数か月で数百ドルの資金を作った。

1850年、ホノルルで漂流の仲間と再会した万次郎は、小舟を買い、上海へ向かう商船に積んでもらった。1851年2月、仲間2人とともに、琉球の沖で小舟を降ろし、沖縄本島の南部の海岸に上陸した。琉球を支配していた薩摩藩で取り調べを受けたとき、藩主の島津斉彬は自ら彼の話を聞き、西洋の船や技術について尋ねたという。さらに長崎の奉行所で長い取り調べを受け、キリスト教徒でないことを示すために踏み絵を踏まされた。1852年、ようやく土佐に帰り、11年ぶりに母と再会した。
土佐藩は万次郎を取り立て、藩校で教えさせた。絵師の河田小龍は、万次郎から聞いた話をまとめて『漂巽紀略』を著し、藩主に差し出した。坂本龍馬は小龍のもとを訪ねて、世界の話を聞いたとされる。
1853年、黒船来航で揺れる幕府は、アメリカを知る者として万次郎を江戸に呼び、幕臣に取り立てた。漁師の子が、故郷の村の名から中浜の姓を名乗り、武士になったのである。ペリーとの交渉の通訳に使う案もあったが、アメリカに通じているのではないかと疑う水戸の徳川斉昭らの反対で、表には出なかった(日米和親条約)。それでも万次郎は、幕府の軍艦の教授所で航海術や英語を教え、アメリカの航海術の本を翻訳し、1859年には英会話の手引き書をまとめた。

1860年、幕府の使節がアメリカへ渡ったとき、万次郎は護衛の船の咸臨丸に通訳として乗り組んだ。艦長格の勝海舟をはじめ、日本人の乗員の多くは荒れた冬の太平洋で船酔いに苦しみ、同乗したアメリカ海軍の士官たちと万次郎が、操船を支えたとされる。同じ船に乗っていた福沢諭吉とともに、万次郎はサンフランシスコで英語の辞書を買って帰った。
1870年、万次郎は普仏戦争の視察団に加わってヨーロッパへ向かい、途中アメリカに立ち寄って、フェアヘイヴンのホイットフィールド船長と20年ぶりに再会した。だが帰国後まもなく病に倒れ、表舞台から退いた。1898年11月12日、東京の長男で医師の中浜東一郎の家で死んだ。71歳だった。

万次郎は自分の体験を本にしなかったが、その生涯は、作家の井伏鱒二が1937年に書いた『ジョン万次郎漂流記』などで広く知られるようになった。フェアヘイヴンには、彼が暮らした船長の家が残され、1987年には、土佐清水市とフェアヘイヴンが姉妹都市になった。