バレンツの越冬
概要
北東航路を探して三度目、ノヴァヤゼムリャで船が氷に閉じられた。流木で小屋を建て、白熊と極夜と壊血病の中で10か月。6月、ボート2隻で出て、バレンツは7日目に死んだ。12人が帰った。1871年、小屋が見つかった。時計、本、フルート。彼の名の海。
場所
76.00°N 60.00°E · ロシア
関わった人(1)
ウィレム・バレンツAD1550年頃–AD1597年6月20日 · 死んだ本文
16世紀の末、新しく独立を目指していたネーデルラント(オランダ)の商人たちは、アジアの香辛料と絹の富に近づく道を探していた。南回りの航路はスペインとポルトガルが押さえている。ならば、ヨーロッパの北を回り、シベリアの北の海を東へ抜けて中国へ行けないか。この「北東航路」に三度挑んだのが、航海士ウィレム・バレンツである。
1594年の最初の航海で、バレンツは北極海に南北に長く伸びるノヴァヤゼムリャの島の北の端近くまで進んだが、氷に阻まれた。翌年の7隻の船団も、海峡を埋める氷を越えられなかった。それでもアムステルダムの商人たちは、三度目の航海に2隻の船を出した。1596年5月、一隻はヘームスケルクが船長、バレンツが航海士を務め、もう一隻はライプが率いた。

2隻は北へ進んで、6月、それまで知られていなかった島に着き、白熊と格闘した末に仕留めて、ベア島と名づけた。さらに北で、鋭くとがった山々の連なる大きな島を見つけた。スピッツベルゲン、「とがった山々」の意味である。その後、2隻は進む道をめぐって意見が分かれて別れ、バレンツの船は東へ向かい、ノヴァヤゼムリャの北の端を回った。
8月の末、船は東岸の入り江で氷に閉じ込められた。氷は船を押し上げ、きしませ、動かなくした。乗組員17人は、木の生えない島で冬を越すしかないと覚悟を決めた。幸い、浜には遠いシベリアの川から海が運んできた流木が積もっていた。彼らは流木と船の木材で小屋を建て、「救われた家」と名づけた。

北極の冬は想像を超えた。11月の初め、太陽は地平線の下に沈み、何か月も続く夜が始まった。寒さで時計は止まり、酒は凍り、壁の内側にも霜と氷が張りついた。彼らは寝床に暖めた石を入れ、罠で北極狐を捕らえて肉を食べ、毛皮を着た。白熊はたびたび小屋のそばに現れ、彼らを脅かした。ある夜、寒さをしのぐために火を焚いたまま小屋を閉め切って、煙で全員が倒れかけたこともある。ビタミンが足りずに歯ぐきが腫れ、体が弱る壊血病も彼らをむしばんだ。
1597年1月、まだ日の出は2週間ほど先のはずなのに、地平線の上に太陽の一部が見えた。乗組員たちは喜び、学者たちは長くその記録を疑ったが、のちに、極地の冷たい空気が光を大きく曲げ、地平線の下の太陽を浮かび上がらせる現象だと分かった。この現象は、いま「ノヴァヤゼムリャ効果」と呼ばれている。

春が来ても、氷は船を放さなかった。6月、彼らは船を捨て、2隻の小さな屋根のないボートで脱出することにした。バレンツはすでに重い病に倒れていた。出発から1週間ほどたった6月20日、バレンツは海図を眺め、仲間と言葉を交わしたあと、静かに息を引き取ったと、同行した者の日誌は記す。もう一人の乗組員も同じ日に死んだ。
残った者たちは、氷の間を縫って、2か月以上かけてロシアの沿岸を南へ進んだ。途中でロシア人の漁師たちに食糧を分けてもらい、ついにコラ半島の港で、オランダの船に出会った。驚いたことに、それは前の年に別れたライプの船だった。11月、12人がアムステルダムに帰り着いた。乗組員のヘリット・デ・フェールは航海の日誌を1598年に出版し、北極で冬を越した記録として、ヨーロッパ各国の言葉に訳されて広く読まれた。

1871年、ノルウェーの船長カールセンが、ノヴァヤゼムリャの入り江で、崩れかけた小屋の跡を見つけた。中には、時計、フルート、本、武器、食器、靴などが、270年余り前のまま氷に守られて残っていた。品々はいまアムステルダムの国立博物館に展示されている。
北東航路の開拓はその後も続いた。イギリス人のヘンリー・ハドソンもオランダの依頼で挑んだが、やはり氷に阻まれた(ハドソン湾の発見と遭難)。北東航路をはじめて通り抜けたのは、280年余り後の1878年から翌年にかけての、スウェーデンのノルデンショルドの探検船である。オランダはその間、南回りでアジアへ向かい、1602年にはオランダ東インド会社の設立を果たして、香辛料の貿易を握った。バレンツの名は、彼が死んだ海「バレンツ海」に残っている。