マルコ・ポーロ
概要
東方への旅を語り、ヨーロッパにアジアの富を印象づけた。コロンブスはこの本を携えて出航する。
関わったできごと(2)
モンゴル帝国の拡大1206年 · この交通圏を旅した『東方見聞録』AD1298年(獄中での口述) · 口述本文
1254年頃、ヴェネツィアの商人の家に生まれた。当時のヴェネツィアは、地中海と黒海の交易を握る海の共和国だった。マルコが生まれたころ、父ニコロと叔父マッフェオは商売のために東へ旅立っていて、マルコは父の顔を知らずに育った。母は早くに亡くなったとされる。
父と叔父は、モンゴル帝国の内紛に行く手を阻まれて東へ東へと進み、ついに大ハーンのフビライ・ハンの宮廷にたどり着いた。フビライは二人を厚くもてなし、ローマ教皇に宛てて、キリスト教の教えに通じた学者を100人送ってほしいという手紙を託した。1269年、二人はヴェネツィアに戻った。
1271年、17歳のマルコは、父と叔父に連れられて再び東へ発った。新しい教皇が付けてくれた二人の修道士は、戦乱を恐れて途中で引き返した。一行はアルメニア、ペルシアを抜け、パミールの高原を越え、タクラマカン砂漠の南の縁をたどって、3年半ほどかけてフビライの夏の都、上都に着いたと本人は語っている。それから24年、ヴェネツィアには帰らなかった。

本の中のマルコは、フビライに気に入られ、使者として国の各地へ送られた。見てきた土地の風俗や産物を面白く報告するので、ハーンは喜んだという。揚州という大きな町を3年治めたとも語っている。だが、中国側の記録には、それらしい人物の名が見当たらない。南宋の城を攻めるときに、自分たちが投石機を作って落城させたという話は、実際の落城がマルコの到着より前なので、明らかに事実と合わない。
1290年頃、ペルシアを治めるモンゴルの君主のもとへ嫁ぐ姫を送り届ける役目を得て、ようやく帰国を許された。一行は南の海を船で進み、スマトラやセイロン島、インドの沿岸を経てペルシアに至り、1295年にヴェネツィアへ帰り着いた。家族さえ、ぼろをまとった三人をすぐには分からなかったという話も伝わる。
帰国後まもなく、ヴェネツィアはライバルのジェノヴァと戦争になり、マルコは捕虜になった。ジェノヴァの牢で、ピサ出身の物語作家ルスティケッロと同じ房になり、旅の話を口述した。それをルスティケッロが書き取ってまとめたのが、日本で『東方見聞録』と呼ばれる本である。1298年頃のことで、書かれたのはイタリアなまりの古いフランス語だった。騎士物語の書き手らしい誇張や決まり文句が混じっている。本は写本で広まり、各地の言葉に訳されるうちに書き換えられ、いま150ほどの写本が残るが、どれが元の形かもはっきりしない。

本に描かれたのは、ヨーロッパ人の想像を超える東方の富だった。大ハーンの宮殿の壮麗さ、紙で作られたお金が金や銀と同じように使われていること、燃える黒い石(石炭)、国中に置かれた駅で馬を乗り継ぐ伝令の仕組み。南宋の都だった杭州は、水路と1万2千の橋がある世界一の町として描かれた。さらに東の海には、宮殿の屋根が金で葺かれた島ジパングがあるとし、大ハーンがその島に攻め込んで失敗した話まで書いている(元寇)。ジパングについては、マルコ自身は行っておらず、聞いた話として語っている。
本当に中国へ行ったのか、という疑いは古くからある。万里の長城が出てこない。お茶も、女性の纏足も、漢字や印刷も出てこない。1995年には、イギリスの研究者が、マルコは中国へ行かず、ペルシアなどで聞いた話をまとめただけではないかという本を出した。

一方で、ほかの記録と細部が一致する点も多い。ペルシアへ嫁ぐ姫に付き添った三人の使者の名は、中国の元代の文書に記された名とぴたりと合う。紙幣の作り方や塩の専売の仕組みも、当時の中国でなければ知りえないほど正確だと指摘されている。長城は、いま見られる姿が築かれたのはもっと後の明の時代である。行ったけれども誇張した、という見方が現在の多数とされる。
1324年1月、ヴェネツィアで亡くなった。70歳前後だった。遺言では、東方から連れてきたタタール人の召使いを自由の身にしている。死の床で、話を嘘だと認めるよう求められて、「見たことの半分も話していない」と答えたと伝えられるが、これは後の修道士の記録による。

本は、物語「大航海時代」の船乗りたちに読まれた。コロンブスは、ラテン語訳の一冊に余白の書き込みをしながら読み込んでいたことが分かっている。その本は今もスペインのセビーリャに残っている。西へ進めばジパングと大ハーンの国に着くと信じて出航したコロンブスがたどり着いたのは、アメリカだった(コロンブスの到達)。