ボハドル岬の突破
概要
「そこから先は海が沸き、船は帰れない」。ヘンリー航海王子が15回送って、15回引き返した。ジル・エアネスが沖に出て回った。何もなかった。それから毎年、南へ。恐れは地図の上にあった。アフリカの海岸は、それから50年で喜望峰まで開いた。
場所
26.13°N -14.50°E · 西サハラ
関わった人(1)
エンリケ航海王子AD1394年3月4日–AD1460年11月13日 · 送り続けた本文
1434年、ポルトガルの航海者ジル・エアネスの小さな船が、アフリカ西岸の岬、ボハドル岬の先へ進み、無事に帰ってきた。それまでヨーロッパの船乗りたちは、この岬の先には誰も行けない、行けば二度と帰れないと信じていた。エアネスが岬を越えたことで、恐れの壁が破られ、ポルトガルの船は毎年少しずつアフリカの海岸を南へ進んでいった。半世紀後、その道は喜望峰にまで達する。
ボハドル岬は、いまの西サハラの海岸、北緯26度あたりにある。ボハドルとは「膨らんだもの」を意味するとされ、海に突き出た低い岬である。岬の沖には浅瀬が長く延び、波が砕け、強い海流が南へ流れていた。霧も多く、海岸には赤い砂の崖が続いて、上陸できる場所も水を得られる場所もほとんどなかった。

中世のアラブの地理学者たちは、大西洋を「暗黒の海」と呼んだ。ヨーロッパの船乗りの間には、ボハドルの先では海が煮えたぎり、太陽の熱で人の肌は黒く焼け、船は海の怪物に引きずり込まれる、という話が語られていた。そうした恐ろしい話の背後には、現実の困難もあった。この海域では、一年の多くの時期に北東からの風が吹き、海流も南へ流れている。南へ下るのはたやすいが、同じ道を風と流れに逆らって戻るのは難しい。帰れない、というのは誇張であっても、まったくの迷信ではなかった。
ボハドルを越えさせようとしたのは、ポルトガル王ジョアン1世の息子、エンリケ航海王子だった。1415年のセウタ攻略に加わったエンリケは、サハラの南から金や奴隷を運んでくる隊商の道を知り、その源に海から直接たどり着きたいと考えた。アフリカのどこかにいると信じられていたキリスト教徒の王と手を結び、イスラーム勢力を挟み撃ちにするという夢もあった。エンリケは1420年代から、たびたび船をアフリカの海岸へ送り出した。しかし船乗りたちは、ボハドルの手前まで行くと引き返してきた。その代わりに、近くのカナリア諸島を襲って帰ってくることも多かった。エンリケの年代記を書いたゴメス・エアネス・デ・ズララによれば、こうした失敗が12年続いた。船を送った回数は15回とも言われる。

ジル・エアネスは、エンリケの家に仕える従者だった。1433年、彼も岬を越えられず、カナリア諸島まで行って引き返した。エンリケは彼を叱りもせず、もう一度行け、危険は話に聞くほど大きくはない、行けばそれだけで報われる、と励ましたとズララは伝える。1434年、エアネスは再び出航した。彼は岸沿いに進むのをやめ、浅瀬と波を避けて、いったん大きく沖へ出てから南へ回り込んだ。こうして彼は岬の先へ抜けた。海は煮えたぎってもいなかったし、怪物もいなかった。上陸してみると、そこには人の姿も家もなく、砂地に小さな植物が生えているだけだった。エアネスはその草を摘んで持ち帰り、エンリケに見せた。ポルトガルの人々はそれを「聖母マリアのバラ」と呼んだ。
ズララの年代記は、この出来事から20年ほどのち、1453年ごろにまとめられた。エンリケを称えるために書かれた本で、ボハドルの恐ろしさも、エアネスの手柄も、劇的に描かれている可能性がある。さらに、エアネスが越えた岬が本当にいまのボハドル岬だったのかについても、疑問を出す研究者がいる。当時の地図や航海の記録から、もっと北にあるジュビー岬のことだったのではないか、という説である。

いずれにせよ、壁はいったん破られると、二度と元には戻らなかった。1435年、エアネスはアフォンソ・ゴンサルヴェス・バルダイアとともに、さらに50レグア(250キロほど)南まで進み、人やラクダの足跡を見つけた。1436年、バルダイアはさらに南の入江に達し、そこを「リオ・デ・オーロ」(金の川)と名づけた。金を期待してつけた名前だったが、金は見つからなかった。
やがて、ポルトガル人がアフリカの海岸から持ち帰るものは、金ではなく人間になった。1441年、アンタン・ゴンサルヴェスは海岸で捕らえたアフリカの人々をポルトガルに連れ帰った。1444年には、南部の港ラゴスの浜で、連れてこられた200人あまりのアフリカの人々が、家族を引き離されて分配された。その光景を書き残したズララは、親子が引き裂かれる様子に涙を禁じ得なかったと書いている。ここから始まった流れは、のちに数百万人を大西洋の向こうへ運ぶ大西洋奴隷貿易へとつながっていく。

ポルトガルの船は、南へ進み続けた。1440年代の半ばにはセネガル川の河口とヴェルデ岬に達し、砂漠の海岸が終わって、緑の木々が茂る土地が現れた。帰りの航海では、風と海流に逆らって岸沿いに戻るのではなく、いったん大西洋の沖へ大きく出て、アゾレス諸島のあたりで西風をつかまえて戻る航法が編み出されていった。三角帆を備えて風上へも進みやすいカラベル船が、その航海を支えた。
1460年、エンリケは死んだ。その時までに、ポルトガルの船はいまのシエラレオネのあたりまで達していた。1482年にはディオゴ・カンがコンゴ川の河口に着き(コンゴ王国とポルトガルの接触)、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカの南端を回った(喜望峰の回航)。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマはインドに着いた(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。ボハドルを越えてから64年後のことである。
20世紀のポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは、海に乗り出した祖先たちを歌った詩の中で、ボハドルを越えようとする者は、苦しみも越えねばならない、と書いた。恐れは海そのものよりも、人々が地図の上に描いた想像の中にあった。いまのボハドル岬には小さな町と灯台がある。この土地を含む西サハラは、モロッコが大部分を実効支配しているが、その帰属はいまも国際的に決着していない。