マチュピチュの建設
概要
パチャクティが、ウルバンバ川を見下ろす標高2400メートルの尾根に建てた。王の離宮か、聖地か、両方か。スペイン人は来なかった。100年で捨てられた。1911年、ビンガムが地元の農民に案内された。石は隙間なく組まれ、地震で崩れない。
場所
-13.16°N -72.54°E · ペルー
関わった人(1)
パチャクテクAD1418年頃–AD1471年頃 · 建てた本文
マチュピチュは、ペルーのアンデス山中、インカの都クスコから北西へ直線でおよそ80キロの尾根の上に築かれた石の町である。標高は約2430メートルで、足もとの深い谷をウルバンバ川が蛇行し、その川面からは400メートル以上の高さにある。名は現地のケチュア語で「古い峰」を意味し、町の背後にそびえる尖った峰ワイナピチュは「若い峰」を意味する。15世紀の半ば、インカ帝国を大国に押し上げた王パチャクテクの時代に建てられたと考えられている。
インカ帝国は15世紀の初めまで、クスコ盆地の一勢力にすぎなかった。伝承では、北の強国チャンカの攻撃からクスコを救った王子が、パチャクティ(「世界を転換する者」)を名のって王になり、四方へ征服を進めた(パチャクティの拡大)。スペインの年代記は即位を1438年ごろとする(インカ帝国の拡大)。クスコから北西のウルバンバ川の下流域も、この時代にインカの支配下に入った。熱帯の森の縁にあたるこの谷は、コカの葉やトウガラシなど、高地では育たない産物の産地でもあった。

マチュピチュが何のための町だったのかについては、長く議論が続いてきた。決め手になったのは、1980年代に人類学者ジョン・ロウが見つけた16世紀の訴訟の記録である。パチャクティの子孫たちが、自分たちの土地として「ピチュ」という場所の名を挙げていた。そこからいまでは、マチュピチュはパチャクティが自分と一族のために造らせた王の領地で、王族が滞在する離宮だったと考える説が有力である。インカの王は死後もミイラとして一族に仕えられ、その領地は一族が受け継いで管理した。クスコより低く暖かいこの尾根は、王が狩りや祭りのために訪れる場所だったとみられる。同時に、町の中には太陽の神殿や、岩を削り出した「インティワタナ」と呼ばれる石、三つの窓の神殿など、儀礼のための建物が多く、聖地としての性格も強い。離宮か聖地かという問いには、両方だった、と答えるのが普通になっている。
町は尾根の上のおよそ200の建物と、斜面を埋める数百の段々畑からなる。王の一族が滞在していない時期には、管理と世話のために数百人ほどが暮らしていたとみられ、王の滞在中はそれより多くの人が集まった。建物の石は、尾根の上で採れる白っぽい花崗岩を、その場で切り出して使っている。神殿や王の住まいなど重要な建物では、石を一つずつ削り合わせて、継ぎ目にかみそりの刃も入らないほどぴったりと組んだ。壁はわずかに内側へ傾き、出入り口や窓は上の狭い台形に作られている。こうした造りのおかげで、地震の多いこの土地でも、重要な壁は500年以上崩れずに立っている。一方、普通の住まいや倉は、粗い石を泥でつないだ壁でできていた。

見えないところにも工夫がある。急な尾根に町を載せるには、雨季の大量の雨を地面の下で抜く必要があった。段々畑の下には大きな石、小石、砂、土を層に重ねた排水の仕組みがあり、町には山の湧き水を引いた水路と、16の水汲み場が上から順に並んでいる。土木の調査をした技術者は、この町の工事の大半は地下の基礎と排水に費やされ、地上に見えているのは一部にすぎないと見積もった。
築かれた年代については、新しい発見がある。2021年、アメリカの考古学者リチャード・バーガーらは、墓から出た人骨を放射性炭素で測り直し、マチュピチュには1420年ごろから人が住んでいたと発表した。スペインの年代記が伝えるパチャクティの即位の年より20年ほど早い。年代記の年がそもそも正確でないのか、建設がパチャクティ以前に始まっていたのか、まだ結論は出ていない。
インカの町としてのマチュピチュは、長く使われなかった。1532年、フランシスコ・ピサロの率いるスペイン人がペルーに入り、皇帝アタワルパを捕らえて(カハマルカの戦い)、帝国は崩れた(インカ帝国の滅亡)。王の一族の領地を支えていた仕組みも失われ、マチュピチュの住人は16世紀のうちに去ったとみられる。スペイン人がこの町に来た記録は無く、町は破壊も略奪もされないまま、森に覆われていった。いまに残っているのはそのためである。ただし、谷の人々はこの場所を忘れていたわけではなく、20世紀の初めには遺跡の段々畑で畑を作る農民もいた。

1911年7月24日、アメリカのイェール大学の講師ハイラム・ビンガムが、谷に住む農民メルチョル・アルテアガの案内で尾根に登った。上で畑を作っていた家族の少年が、彼を遺跡へ導いた。ビンガムが探していたのは、スペインに抵抗したインカの最後の拠点ビルカバンバで、彼はマチュピチュこそそれだと考えた(実際のビルカバンバは、さらに奥の森の中のエスピリトゥ・パンパだったことが、後に分かっている)。それより前の1902年には、地元の農民アグスティン・リサラガが訪れて壁に名前を炭で書き残しており、ビンガム自身もそれを見ている。ビンガムが「発見」したのは、外の世界にとっての発見だった。
1913年、アメリカの雑誌がマチュピチュを特集し、「失われたインカの都市」の名は世界に広まった。ビンガムの調査隊は墓の人骨のほとんどを女性と判断し、太陽に仕える「選ばれた女性たち」の町だと考えたが、のちの再調査で男女はほぼ半々だと分かった。彼が持ち出した数万点の出土品をめぐってはペルー政府が返還を求め続け、イェール大学は2011年からペルーへ返し始めた。

マチュピチュは1983年に世界遺産に登録され、いまでは年に100万人を超える人が訪れる南米有数の観光地になった。訪れる人の多さが遺跡を傷めるとして、ペルー政府は入場者の数と見学の道筋を制限している。インカ道(インカ道)を数日かけて歩いて太陽の門から町を見下ろす人もいれば、ふもとの町から曲がりくねった道をバスで上る人もいる。スペインに知られなかったことが、この町をそのままの姿で残した。