鯨油
概要
夜を明るくする最良の油は、マッコウクジラの頭部から採れた。煙が少なく、臭わず、白く明るい。頭の中の脳油は冷えると蝋になり、ほとんど煤の出ない蝋燭になった。ナンタケット島とニューベッドフォードの船が、大西洋から太平洋へ、そして日本の沖へと漁場を広げていく。航海は三年に及んだ。乗組員は多様で、逃亡奴隷と先住民と各国の船乗りが同じ船で働いた。鯨油の値が高騰し、そして石油とガス灯が、この産業を終わらせた。
場所
41.28°N -70.10°E · アメリカ・マサチューセッツ州
本文
電灯もガス灯も無かった時代、夜を照らす手段は限られていた。安いのは牛や羊の脂で作る獣脂の蝋燭だったが、煙が出て、臭く、溶けて垂れた。蜜蝋の蝋燭は上等だが、とても高く、教会や宮廷で使われるものだった。オリーブや菜種の油を燃やすランプは煙が出た。そこで人々が求めたのが、鯨の油である。
鯨油には二つの種類があった。一つはセミクジラやザトウクジラなどの皮の下の脂肪を煮て取る普通の鯨油で、よく燃えるが臭いがあり、街灯や機械の潤滑油に使われた。もう一つが、マッコウクジラから取れる油で、これは別格だった。マッコウクジラの巨大な頭の中には、鯨蝋と呼ばれる油をたっぷり蓄えた器官があり、一頭から大量の鯨蝋が取れた。この器官が何のためにあるのかは、いまも完全には分かっていない。浮き沈みの調節に使うという説や、音を束ねて送り出すためのものだという説がある。

鯨蝋は冷えると白い蝋のような固体になる。これで作った蝋燭は、ほとんど煤を出さず、臭わず、白く明るく燃えた。最高の蝋燭である。その明るさは光の強さを測る基準にもなり、1860年のイギリスでは、決まった重さの鯨蝋の蝋燭が決まった速さで燃えるときの明るさが、「標準の一燭」と定められた。いまの光度の単位「カンデラ」は、この蝋燭一本の明るさの考え方を受け継いでいる。マッコウクジラの体から取る油も、灯りの油として最も優れていた。
この油を追って海に出たのが、マサチューセッツ沖の小さな島、ナンタケットの人々である。島の土地はやせていて、畑には向かない。周りには海しかなかった。もともと島に住んでいた先住民のワンパノアグの人々は、浜に打ち上げられた鯨を利用し、岸の近くで鯨を追う技も持っていた。入植者たちは、その技を彼らから学んだ。初期の捕鯨船の乗組員には多くの先住民がいたが、彼らは安い賃金と借金で船に縛りつけられていた。

1712年、クリストファー・ハッシーという船乗りの船が嵐で沖へ流され、そこでマッコウクジラに出会って仕留め、島へ持ち帰ったという話が伝わる。細部には後世の脚色があるとされるが、この頃から、島の人々が沖へ出てマッコウクジラを追う遠洋の捕鯨を始めたことは確かである。船の上に煮るための炉を据え、獲った鯨をその場で切り刻んで油にし、樽に詰めて持ち帰るようになると、航海は長く、遠くなっていった。
漁場は年を追って広がった。18世紀の後半には南大西洋のブラジル沖へ、18世紀の終わりには南米の南端ホーン岬を回って太平洋へ出た。19世紀に入ると、ガラパゴスの沖、そして1820年代には日本の沖に豊かな漁場が見つかり、「ジャパン・グラウンド」と呼ばれた。1840年代の末には北のベーリング海峡を越えて北極海にまで入っていった。一度の航海は3年から4年、ときには5年に及んだ。
1841年、土佐の漁師の少年万次郎は、漂流して無人島にたどり着いたところを、アメリカの捕鯨船に救われた。船長の故郷マサチューセッツのフェアヘイヴンで教育を受け、捕鯨船の乗組員として働いた後、日本に帰り、のちに幕府に仕えた(ジョン万次郎)。1853年にペリーが日本へやって来た目的の一つも、太平洋で活動するアメリカの捕鯨船のために、水や食料や燃料を補給できる港を手に入れることだった(黒船来航)。日本の開国の背景には、鯨油を求める船の群れがあったのである。

捕鯨船の乗組員は、驚くほど多様だった。逃げてきた奴隷、自由な身分の黒人、先住民、大西洋のアゾレス諸島やカーボヴェルデの島民、ハワイの人々、そして世界中の船乗り。過酷で危険で、稼ぎも当てにならない仕事だったので、ほかに行き場のない人々が乗り込んだ。船の上では、肌の色よりも腕前が序列を決めたと言われることがある。
ナンタケット生まれの黒人の船長アブサロム・ボストンは、1822年、乗組員がすべて黒人の船で航海した。ただ、これを平等の証しとして美化することはできない。賃金や扱いには、はっきりした差別があった。

稼ぎは「レイ」と呼ばれる歩合の仕組みで決まった。航海全体の儲けの何分の一を受け取るかが、乗る前に決められる。船長なら十数分の一ほどだが、ふつうの水夫は百数十分の一から二百分の一ほどにすぎなかった。しかもそこから、航海中に船で買った服や道具の代金が差し引かれた。3年働いて、手元には借金だけが残ったという記録もある。
最盛期の1840年代、アメリカの捕鯨船は700隻を超え、世界の捕鯨船の大半を占めた。中心はやがて、ナンタケットから本土のニューベッドフォードへ移った。ナンタケットの港は浅く、大型化する船が入りにくくなり、1846年には大火が町を襲った。鯨油で潤ったニューベッドフォードは、世界でいちばん豊かな町とまで呼ばれた。

1841年、その港から捕鯨船アクシュネット号に乗り込んだ若者の一人がハーマン・メルヴィルである。彼は南太平洋のマルケサス諸島で船から逃げ出し、その経験をもとに、1851年、『白鯨』を書いた(メルヴィル『白鯨』)。この長編は彼の生前にはほとんど売れず、名作として読まれるようになったのは20世紀に入ってからのことである。
しかし、この産業の終わりも早かった。まず、鯨が減った。獲りすぎたせいで、遠くまで行かなければ鯨が見つからなくなり、航海は長くなって儲けは細っていった。次に、1859年、ペンシルヴェニアでドレークの油井が石油を掘り当てた。

石油から作る灯油は、安く、明るかった。都市ではガス灯も広がっていた(ガス灯と夜の街)。鯨油の値段は数年のうちに崩れた。
追い打ちをかけたのが南北戦争だった。南部連合の軍艦が北部の捕鯨船を次々に襲って焼いた。北軍は古い捕鯨船を買い上げて石を積み、南部の港の入り口に沈めて封鎖に使った。「石の艦隊」と呼ばれたこの作戦で、多くの捕鯨船が海の底に消えた。

そして1871年、アラスカ沖の北極海で、30隻あまりの捕鯨船が氷に閉じ込められ、捨てられた。1200人を超える乗組員は、ほかの船が積み荷を捨てて乗せたおかげで全員助かったが、捕鯨の船団は壊滅的な打撃を受けた。19世紀の終わりには、アメリカの帆船による捕鯨は事実上終わった。
それでも、鯨が獲られなくなったわけではない。20世紀には、爆薬つきの銛と巨大な工船を使う近代的な捕鯨が始まり、その規模は帆船の時代をはるかに上回った。20世紀の間に獲られた大型の鯨は、およそ300万頭と推定されている。目的はもはや灯りではなく、マーガリンや石鹸の原料、そして食肉だった。
1982年、国際捕鯨委員会は商業捕鯨の一時停止を決め、1986年から実施された(商業捕鯨の一時停止)。それでも、シロナガスクジラの数は、捕鯨が始まる前の数パーセントにとどまると推定されている。夜を明るくするために始まった海の狩りは、灯りの主役が石油に移った後も、鯨の数を減らし続けたのである。