できごと

白瀬矗の南極探検

Shirase's Antarctic expedition
AD1912年1月
重要度 3
大英帝国AD1912年1月南極点
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1912年1月の版図を描いています(1勢力)。

概要

204トンの漁船で。政府は金を出さず、大隈重信が募った。アムンセンとスコットが点を争っている同じ月に、ロス棚氷を280キロ走って引き返した。「大和雪原」。帰ると借金だけ残り、講演で返した。日本人が南極に立った最初。

場所

南極点
-90.00°N 0.00°E · 南極

関わった人(1)

白瀬矗AD1861年7月20日–AD1946年9月4日 · 率いた

本文

20世紀のはじめ、地球の上でまだ人が立ったことのない場所は、北極点と南極点だけになっていた。1909年、アメリカのピアリーが北極点に達したと発表すると、各国の探検家の目は南に向いた。イギリスのスコットは、国の後押しを受けて大がかりな隊を組み、1910年に出発した。ノルウェーのアムンセンも、北極へ行くと見せかけて南極に向かった。

秋田の寺に生まれた陸軍の軍人、白瀬矗は、若いころから北極の探検を夢見ていた。1893年には、千島列島の開発を目指す郡司成忠の一行に加わり、北の果ての占守島で越冬した。寒さと壊血病で仲間が次々に倒れる厳しい冬だった。ピアリーの知らせを聞いた白瀬は、目標を南極に切り替えた。

白瀬矗の肖像
白瀬矗の肖像Wikimedia Commons published by 潮出版社 · Public domain

1910年、白瀬は南極探検の計画を公にし、国に援助を求めた。だが、政府から資金は得られなかった。代わりに、政治家の大隈重信が後援会の会長となって寄付を募り、新聞も呼びかけて、全国から集まったお金で準備が進められた。手に入った船は、204トンの木造の帆船で、補助の機関を付けたもとの漁船だった。スコットの船の半分にも満たない大きさである。船は開南丸と名付けられた。

1910年11月29日、開南丸は27人を乗せて東京の芝浦を出た。犬ぞりを引かせるために、樺太の犬も積み込んだ。翌年2月にニュージーランドのウェリントンに寄り、3月には南極のロス海に入ったが、すでに南の冬が近づき、海は氷に閉ざされはじめていた。船は進めず、引き返すしかなかった。この航海で、積んできた犬の多くが死んだ。

南極大陸の衛星写真
南極大陸の衛星写真Wikimedia Commons Dave Pape · Public domain

一行はオーストラリアのシドニーに戻り、港の近くの浜に小屋を建てて冬を越した。小さな船で南極に挑む東洋人を、地元の新聞は冷ややかに見たが、地質学者のエッジワース・デイヴィッドは彼らを励まし、手助けをした。デイヴィッドは、かつて南極の南磁極に到達したことのある探検家でもあった。

1911年11月、開南丸は再びシドニーを出た。1912年1月16日、一行はロス棚氷の縁にあるクジラ湾に着いた。そこにはすでに、アムンセンの船フラム号が停泊していた。ロアール・アムンセンは前の年の12月14日に南極点に達し(アムンセンの南極点)、まだ基地へ帰る途中だった。フラム号の乗組員は開南丸を訪れ、互いに行き来したと記録されている。同じころ、ロバート・スコットの一行は南極点にたどり着き、先を越されたことを知って帰路についていた。彼らは誰一人として戻らなかった。

千島列島の日露間の分割を示す地図(年代別)
千島列島の日露間の分割を示す地図(年代別)Wikimedia Commons Hardscarf · Public domain

南極点まで行く力が残っていないことは、白瀬にも分かっていた。そこで彼は、行けるところまで進むことにした。1月20日、白瀬と隊員2人、それに犬ぞりを操る樺太アイヌの山辺安之助と花守信吉の5人が「突進隊」として、棚氷の上を南へ向かった。強い風と吹雪のなか、犬ぞりで9日間進み、1月28日、南緯80度5分の地点に達した。食料の残りを考えて、白瀬はここで引き返すことを決めた。

一行はその場で日の丸を掲げ、この一帯を「大和雪原」と名付け、日本の領土とすることを宣言した。隊員の名を記した書き付けを銅の箱に入れて雪に埋めた。走った距離は、往きだけで280キロほどになる。そのあいだ、開南丸は野村直吉船長のもとで東へ回り、別の隊を上陸させて、エドワード7世半島の沿岸を調べていた。

日本南極地域観測隊の砕氷船「しらせ」(2009年)
日本南極地域観測隊の砕氷船「しらせ」(2009年)Wikimedia Commons toshinori baba · Public domain

1912年6月20日、開南丸は芝浦に帰った。出迎えには5万人が集まったと伝えられる。しかし、後援会の集めた資金はすでに尽き、探検には多額の借金が残った。白瀬はその返済のために、写真や映像を携えて全国を講演して回り、家財を売り払った。返し終えるまでには長い年月がかかった。晩年は恵まれず、1946年9月、愛知県で85年の生涯を閉じた。

大和雪原は、実は陸地ではなく、海の上に張り出した厚い氷の上だった。日本はのちにサンフランシスコ講和条約で、南極の領土の主張を放棄している。それでも、白瀬の隊は日本人として初めて南極に足を踏み入れ、極地の探検の記録に名を残した。南極の東部には白瀬の名を取った氷河があり、その名をもらった南極観測船「しらせ」が、いまも昭和基地との行き来を続けている。

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