できごと

モアイの造営

Moai
1250年 – 1500年
期間を持つできごと重要度 4
サバンナの狩猟採集民アマゾンの狩猟採集民パンパの諸文化ティワナクアンデスの狩猟採集民ワリ帝国パタゴニアの貝採集・海獣狩猟民チムー王国1250年イースター島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1250年の版図を描いています(8勢力)。

概要

絶海の孤島で1000体近い石像が立てられた。森を使い尽くしたことが衰退の一因とされるが、議論がある。

場所

イースター島
-27.11°N -109.35°E · チリ領

本文

ラパ・ヌイ(イースター島)は、南米の海岸から3500km以上、人の住む最も近い島ピトケアンからも2000km近く離れている。面積は160平方kmあまり、歩いて一日で一周できるほどの火山島だ。ここに、ポリネシアの航海者がカヌーでたどり着いた(ポリネシア人の太平洋拡散)。いつ着いたかは長く800年ごろとされてきたが、放射性炭素の測り直しから、1200年前後とする説が有力になっている。ポリネシアの島々が描く大きな三角形(ポリネシア三角形の完成)の、東の頂点にあたる島になる。

着いた人びとは、やがて石の像を立て始めた。島の人がモアイと呼ぶその像は、いま確認されているだけで900体近くある。平均すると高さ4メートル、重さ12トンほど。台座(アフ)の上に立てられた中で最大のものは高さ10メートル、重さ80トンを超える。像は海ではなく内陸を向き、村を見守るように立っていた。祖先を表すものと考えられ、首長の家系の力を示す意味もあったとされる。

モアイ像 ラノ・ララクと呼ばれるモアイの製作所
モアイ像 ラノ・ララクと呼ばれるモアイの製作所Wikimedia Commons Aurbina · Public domain

ほとんどの像は、島の東にある死火山ラノ・ララクの凝灰岩から彫り出された。斜面にはいまも、彫りかけのまま岩に寝ている像や、運び出されずに立ったままの像が数百体残る。中には長さ20メートルを超える未完成の像もあり、仕事が途中で止まったように見える。頭に載せる赤い石の帽子(プカオ)は、別の採石場から運ばれた。

どう運んだのかは長く謎だった。丸太のころに載せて引いた、木のそりで運んだ、という説が出されてきた。2012年、考古学者たちが5トン近い複製を縄で左右に引き、像を立てたまま揺らして前へ「歩かせる」実験に成功している。18人ほどで、100メートルを40分ほどで進めた。運ぶ道の跡に倒れて残る像の形も、この方法に合うという。島の口承には「モアイは自分で歩いた」という言い方が残っている。

1990年代に復元されたアフ・トンガリキの15体のモアイ像
1990年代に復元されたアフ・トンガリキの15体のモアイ像Wikimedia Commons Ian Sewell · CC BY 2.5

その間に、森が失われた。地層を調べると、島をおおっていた大型のヤシの花粉が、ある時期から消えていく。人が畑を開き、薪や建材にし、像を運ぶ道具に使ったのだろう。木が無くなれば、外洋へ出る大きなカヌーは作れない。島の人びとは、島の外へ逃げる手段を失ったことになる。

長く、この島の歴史は次のように語られてきた。像を立てる競争のために木を切り尽くし、土地がやせ、食べ物を奪い合う争いが起き、像は倒され、社会が崩れた。ジャレド・ダイアモンドが『文明崩壊』(物語「『文明崩壊』で読む歴史」)でこの筋を大きく取り上げ、環境を壊した文明の自滅の教訓として広く知られた。

未完成のまま放置されたモアイ像
未完成のまま放置されたモアイ像Wikimedia Commons Docrgd · CC BY 4.0

近年、その筋書きに異論が強く出ている。一つはネズミだ。人がカヌーで持ち込んだナンヨウネズミが、ヤシの実をかじって芽を出させなかった。出土したヤシの実の殻の多くに、ネズミの歯の跡がある。もう一つは人口の問題だ。1722年にロッゲフェーンのイースター島到達で最初のヨーロッパ人が来たとき、島にはまだ数千人が暮らし、像も立っていた。島が本当に壊れたのは、そのあとだった。

19世紀の島を襲ったのは、外から来た災厄だった。1862年から63年にかけて、ペルーの奴隷狩りの船が来て、島民の千数百人、一説に3分の1ほどを連れ去った。わずかに帰された人が天然痘を持ち込み、疫病が広がった。1870年代の終わりには、島の人口は100人あまりまで落ちている。像が倒された時期も、ヨーロッパ人が来たあとに集中している。

モアイ像「パロ」
モアイ像「パロ」Wikimedia Commons Jorge Morales Piderit · CC0

一方で、ヨーロッパ人が来る前に島の社会が大きく変わっていたことも確かだ。像を彫る仕事は止まり、代わって、毎年いちばんに海鳥の卵を取ってきた者の主人がその年の「鳥人」として島を治める、という新しい儀礼が生まれていた。島の人びとは、木の無い島で石で囲った畑を工夫し、暮らしを立て直していたとも考えられる。

自滅の教訓なのか、外から来た破壊なのか、それとも逆境に合わせて作り変えた社会の話なのか。議論は決着していない。どの筋で語るかが、そのまま現代の私たちが環境と文明をどう見たいかを映している。

動画(2)

6. Easter Island - Where Giants WalkedFall of Civilizations「森を使い尽くして自滅した」という通説に、近年の反論を並べて検討している
Lessons from Easter Island | Carl Lipo | TEDxBermudaTEDx Talks島の人が森を使い尽くして自滅したという本の筋に、発掘の側から反論している考古学者

出典(1)

ジャレド・ダイアモンド(楡井浩一 訳) 『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』第2章 イースターに黄昏が訪れる

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