モアイの造営
概要
絶海の孤島で1000体近い石像が立てられた。森を使い尽くしたことが衰退の一因とされるが、議論がある。
場所
-27.11°N -109.35°E · チリ領
本文
ラパ・ヌイ(イースター島)は、南米の海岸から3500km以上、人の住む最も近い島ピトケアンからも2000km近く離れている。面積は160平方kmあまり、歩いて一日で一周できるほどの火山島だ。ここに、ポリネシアの航海者がカヌーでたどり着いた(ポリネシア人の太平洋拡散)。いつ着いたかは長く800年ごろとされてきたが、放射性炭素の測り直しから、1200年前後とする説が有力になっている。ポリネシアの島々が描く大きな三角形(ポリネシア三角形の完成)の、東の頂点にあたる島になる。
着いた人びとは、やがて石の像を立て始めた。島の人がモアイと呼ぶその像は、いま確認されているだけで900体近くある。平均すると高さ4メートル、重さ12トンほど。台座(アフ)の上に立てられた中で最大のものは高さ10メートル、重さ80トンを超える。像は海ではなく内陸を向き、村を見守るように立っていた。祖先を表すものと考えられ、首長の家系の力を示す意味もあったとされる。

ほとんどの像は、島の東にある死火山ラノ・ララクの凝灰岩から彫り出された。斜面にはいまも、彫りかけのまま岩に寝ている像や、運び出されずに立ったままの像が数百体残る。中には長さ20メートルを超える未完成の像もあり、仕事が途中で止まったように見える。頭に載せる赤い石の帽子(プカオ)は、別の採石場から運ばれた。
どう運んだのかは長く謎だった。丸太のころに載せて引いた、木のそりで運んだ、という説が出されてきた。2012年、考古学者たちが5トン近い複製を縄で左右に引き、像を立てたまま揺らして前へ「歩かせる」実験に成功している。18人ほどで、100メートルを40分ほどで進めた。運ぶ道の跡に倒れて残る像の形も、この方法に合うという。島の口承には「モアイは自分で歩いた」という言い方が残っている。
その間に、森が失われた。地層を調べると、島をおおっていた大型のヤシの花粉が、ある時期から消えていく。人が畑を開き、薪や建材にし、像を運ぶ道具に使ったのだろう。木が無くなれば、外洋へ出る大きなカヌーは作れない。島の人びとは、島の外へ逃げる手段を失ったことになる。
長く、この島の歴史は次のように語られてきた。像を立てる競争のために木を切り尽くし、土地がやせ、食べ物を奪い合う争いが起き、像は倒され、社会が崩れた。ジャレド・ダイアモンドが『文明崩壊』(物語「『文明崩壊』で読む歴史」)でこの筋を大きく取り上げ、環境を壊した文明の自滅の教訓として広く知られた。

近年、その筋書きに異論が強く出ている。一つはネズミだ。人がカヌーで持ち込んだナンヨウネズミが、ヤシの実をかじって芽を出させなかった。出土したヤシの実の殻の多くに、ネズミの歯の跡がある。もう一つは人口の問題だ。1722年にロッゲフェーンのイースター島到達で最初のヨーロッパ人が来たとき、島にはまだ数千人が暮らし、像も立っていた。島が本当に壊れたのは、そのあとだった。
19世紀の島を襲ったのは、外から来た災厄だった。1862年から63年にかけて、ペルーの奴隷狩りの船が来て、島民の千数百人、一説に3分の1ほどを連れ去った。わずかに帰された人が天然痘を持ち込み、疫病が広がった。1870年代の終わりには、島の人口は100人あまりまで落ちている。像が倒された時期も、ヨーロッパ人が来たあとに集中している。

一方で、ヨーロッパ人が来る前に島の社会が大きく変わっていたことも確かだ。像を彫る仕事は止まり、代わって、毎年いちばんに海鳥の卵を取ってきた者の主人がその年の「鳥人」として島を治める、という新しい儀礼が生まれていた。島の人びとは、木の無い島で石で囲った畑を工夫し、暮らしを立て直していたとも考えられる。
自滅の教訓なのか、外から来た破壊なのか、それとも逆境に合わせて作り変えた社会の話なのか。議論は決着していない。どの筋で語るかが、そのまま現代の私たちが環境と文明をどう見たいかを映している。